或る草の音

そこにある音楽 ここに置く音楽

お地蔵さまとしてのストリートピアノ

前置き。

前回記事で、音楽に「上手/下手」「よい/わるい」はない、そうした評価軸とは関わりない音楽の楽しみ方を切り開いていきたい、という話をちらっと書いた。それをここでは打ち出していきたい、とも書いたのだが、正直なところ「音楽に〜は『ない』」とか「打ち出す」といった言葉が自分に重い。

この考えは、だんだん自分がそう思うようになってきた、さまざまな音楽の一端にわずかに関わるなかで(それでもたしかに)自分の中で培われてきた考えで、自分自身は今後の人生この考え方で音楽と関わっていきたいと思っている。いっぽうで、自分自身が音楽(演奏)の「上手/下手」「よい/わるい」にずっと絡めとられてきている自覚もあり、また自分自身も自分の演奏を「よく」したいと思っているのは思っている。

問題は、ひとがひとり音楽を追究していくそのプロセスに「上手/下手」「よい/わるい」がある/ないというより、その「上手/下手」「よい/わるい」がどこから来たのかなぜそのようなもの・ことがあるのか、そしてそれらはほんとうに音楽にだいじなことなのか、人間に(あるいは「世界に」)だいじなことなのか、というところだろうと思う。そして、そうしたことごとへの問い(自問)なしで、他の人の音楽表現に対して「上手/下手」「よい/わるい」を言い続ける、それはいったいどういうことなのか。それは私はどうしても「問題」だと思う。

それよりは、さまざまな音楽表現に出会したとき、それの表現しているところ・表現しようとしているところを、聴いていくほうが、よりしあわせなことなのではないか、という気がする。いや、たとえば「自分が聴いて心地よい」「感動する」「美しい」などといった自分の感覚・感性・気持ちで音楽を聴くからには(それはまったくもって正当なことだと思うし、私もそうしているしそうしていきたい)、さまざまな音楽表現に出会えばそのほとんどが自分の好みには合わず、苦痛であったり、心底傷ついたりもするだろうとは思う。それはそれとして、さまざまな音楽表現を聴くことの「しあわせ」は、自分が好む音楽を聴くだけにはとどまらないはずだ、とも思っている。

この世界はさまざまなひと、さまざまなものが居る。現に居る。その現に居るこの世界のさまざまなものとひととき関わり合う、その「しあわせ」、僥倖、ということが、自分の気に入る音楽と出会うこととはまた別に(いや別なのかどうかはよくわからない)、あるだろうとも思っている。その「しあわせ」はふつうに言うしあわせとは違うかもしれない(違うというほどはっきり区別はできないかもしれない)が、「仕合わせ」なのではあるだろう。

そういうことが書きたい。打ち出すというほど強くなく(そういう「強さ」がどうも私は上手くない)、自分で自問しながら、さまざまな音楽表現を受け止めること(受け容れないまでも)、その「しあわせ」あるいは僥倖について、なるべくていねいに考えながら書きたい。

 

 

タイトルに書いたことより前置きが長くなってしまった。

 

前々から、パブリックピアノ、外置きピアノ(いまは「ストリートピアノ」と呼ばれていることが多いようで、検索のことを考えてタイトルにもそう書いたけれど、「ストリート」かな?と疑問に思うことも多く、私はいま書いたような別の言い方をいろいろ考えながら使っている)のことについて、自分も弾きながら、そして聴きながら、考えている。

考え始めたきっかけは、以前の記事に少し書いた。それもいずれもっと詳しく書かないといけないなと思っている。

ある街角ピアノのこと - 或る草の音

かんたんに言うと、私はみちみちに居るさまざまなものもの(そこにあるもの=「地物」)に関心がずっとあって、そういう関心のなかで、そこに居るものと人との関わり、さらにそこに居るものを介した人と人との関わりが生まれることにも関心を持つようになった。

外置きピアノはそうした、そこに「居る」もののひとつであるわけだけれど、そこにピアノが「居る」ことでそれを弾く人が現れ、その弾く人に関わっていく人が現れ、現れないまでもそのピアノをきっかけに何事かが起き、何事かが続いていく、そうした事態が始まっていく契機にもなる。そう思っている。

 

ところで、みちみちのそこに「居る」ものに、お地蔵さんや、道祖神、当地では「猿田彦さん」が多いのだが、そうしたみちみちの守り神的な存在(存在者、と言ったほうがいいのかよくわからない)がいる。そうした守り神のことも私はときどき考えるのだけれど、この前ふと、外置きピアノはそうした守り神なのでは、という着想を得た。いや何の守り神なのかぜんぜんわからないのだが、ふとそんなふうに思った。それで、そういう路線のことも考えてみようかといま思っている。

で、少し考えようとしたときに、やはりふと、以前聞いたことがある昔話のことを思い出した。こどもが好きなお地蔵さん、というような題で知られている昔話で、調べてみるといろいろな地域によく似た話が伝わっているようだ。その話をあらためて読み返して、私は外置きピアノのことを思った。

いまちょうどネットで、ピアノを無茶弾きするというのか、そういういささか「乱暴」に思える演奏方法が話題というか問題視されていて、その問題視の発端がどうもストリートピアノだったようなのだが、その話と関連しての連想だった。連想したという以上に深く考えているわけではないけれど、連想したのはしたので、書いておこうと思った。

 

その昔話を紹介しているページを紹介。検索ではほかにも同じような題で同じような昔話がいろいろ出てくる。

 

 

伝承昔話(でんしょうむかしばなし)

子どもの好きな地蔵様(こどものすきなじぞうさま)

 https://www.gimu.fks.ed.jp/plugin/databases/detail/2/18/125#frame-18

 

福娘童話集 > きょうの日本民話 > 8月の日本民話 > 子どもの好きな地蔵さん

http://hukumusume.com/douwa/pc/minwa/08/28.htm

 

 

外置きピアノを設置・運営する主体の方々にはいろいろな考えがおありのはずで、自分がそれぞれの理念や運営方針や実務にどうこうものを言うつもりはそんなにない(行政でやっているところに関しては、ないわけではないけれども)。そういう話とは別に、ただふとこの昔話のことを思い出した。

そして、実際に私が訪ねた各地の外置きピアノのことも、重ねるようにして思い出す。

 

それはそれとして、お地蔵さんとしての、「守り神」としての、外置きピアノというテーマではもう少しいろいろと考えをふくらませてみようと思う。

 さしあたり、何を「守って」いるのか考えてみようかと。

 

子どもの好きな地蔵様