或る草の音

そこにある音楽 ここに置く音楽

自分の音を持つ

★ 長い記事です パートごとに別な話なので、少しずつ読んでいただければと思います 

 

 状況によらずに、あるいは自分自身で状況判断をして、自分が自分で鳴らすことのできる、そういう音を持っているように。自分で持っているように。

 

 それがとてもだいじそうだと、このごろ思う。

 

 

§

 

 宮沢賢治の詩にある、「光でできたパイプオルガン」のことを思い出して、ときどき考える。

 

 「おまへのバスの三連音が/どんなぐあひに鳴ってゐたかを/おそらくおまへはわかってゐまい」と始まる、宮沢賢治の詩「告別」。

 その最後に、「光でできたパイプオルガン」が出てくる。

 

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もしもおまへが

よくきいてくれ

ひとりのやさしい娘をおもふやうになるそのとき

おまへに無数の影と光の像があらはれる

おまへはそれを音にするのだ

みんなが町で暮したり

一日あそんでゐるときに

おまへはひとりであの石原の草を刈る

そのさびしさでおまへは音をつくるのだ

多くの侮辱や窮乏の

それらを嚙んで歌ふのだ

もしも楽器がなかったら

いゝかおまへはおれの弟子なのだ

ちからのかぎり

そらいっぱいの

光でできたパイプオルガンを弾くがいゝ

 

ちくま文庫 宮沢賢治全集Ⅰ 541-542ページより)

 

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 楽器が無ければ、空にある光のパイプオルガンを弾くのだ、そう教え諭す言葉。

 自分がもし楽器を失ったら、楽器を鳴らすことが身体的にできなくなったら、自分は何を鳴らすことができるだろう。光でできたパイプオルガンを自分は弾くことができるだろうか。そういうふうなことを、たびたび考えた。そして自分でなくてほかの人に、楽器が無ければ光のパイプオルガンを弾いたらいいのだ、と言えるのかどうか。そういうことも考えた。

 あるいは、この詩にうたわれている、賢治からみて音楽の才能があるこどもさんのようでなく、楽器を鳴らしたこともほとんどない、楽器が鳴らせると自分で思ってもいない、そんな人も、光のパイプオルガンを弾くことができるのだろうか、と。

 

 ある頃、ツイッターでこんなことを書いた。

 

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どら梅

@draume

·

2019年11月14日

 

このごろは出先で景色を見て立ち止まれる場所があると、立ち止まって景色のなかで心で音を「置いて」みたりする。

そのときの「楽器」はあまりはっきりしたイメージはなく、ピアノのようでもあるけれど、なんというか手乗りオルガン、ハルモニウムみたいなものをそっと鳴らしてみる感じ。

 

賢治の書いた「光でできたパイプオルガン」の自分版みたいなものかもしれない。

 

https://x.com/draume/status/1194982247733948421?s=20

 

https://x.com/draume/status/1194982639444168705?s=20

 

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 光でできたパイプオルガンのことを考えるようになって、だいぶ経った頃だった。自分なりの「光でできたパイプオルガン」を見つけた、こしらえた、生み出した、のかもしれない。

 

 でもそれは自分が、鍵盤楽器が曲がりなりにも扱える、鍵盤楽器に親しんでいる、ともかく楽器で音楽をしてきた、だからそうできるのではないのか、そういう自分でなかったならそんなふうに音を心に鳴らすことができるだろうか。そういう疑念もあるにはある。

 ありつつ、自分はこうしているということではある。いまもおりおり、そうしている。

 

 

§

 

 オカリナやカリンバ類のような小さな楽器を持ち歩いて、公園や緑地や河原のような所で鳴らしている。日課にしているわけではないけれど、外出時にはたいてい何かそうした小物楽器を持って出る。

 私はピアノを弾くけれど、そして自分の人生の時間をいちばん向けてきた楽器はピアノだけれど、これらの小物楽器を持っていること、持ち歩いていることで、自分が音楽することを失わずにやってこれた気がしている。ピアノはピアノが無い所では弾くことができないけれど、小物楽器なら手元に持ってさえいれば、あとは自分の意思と判断とで鳴らすことができる。いつでもどこでも。

 

 パブリックピアノ(ストリートピアノ)を弾くようになって、そのあれこれに関心を持って世の中のパブリックピアノの弾かれ方の様子をインターネットや現地現場でうかがいみるようになって、パブリックピアノがさまざまな人が音楽する可能性を開いたこと、開いていることの、社会的な意義がとても大きいのを繰り返し思う。

 そのいっぽうで、個々のピアノの場にそれを弾こうとする人たちが(自分を含めて)集まり、あちこちのピアノを弾こうと駆け回る人たちが現れ、前の人が10分も弾き続けていると陰で文句を書く人も出てきた、そんなこのごろの様子を見ていると、自分もそうした状況に関わっていながらだけれど複雑な気持ちになる。

 

 パブリックピアノは、現状、誰かが設置するものである。弾く人にとっては、ほかの誰かが条件を用意して整えて、提供してくれているものである。自分自身がその設置運営に参画するというのでなければ。つまりは、作られた場、用意してもらった機会であるわけだ。

 そういう、作られた枠、用意してもらった枠の中だけで音楽ができる、というのは、ひとりの個人が音楽をする上で、好ましいことなのだろうか。それだとほんとうに自分が音楽したいとき、その人は音楽できるのだろうか。

 自分が音楽することの条件をほかの誰かの厚意や社会的制度に委ねていると、そうした諸々が変わると自分が音楽できなくなってしまいかねない。いきおい、そうした諸々が変わらないように、自分がそこで音楽ができ続けるように、忖度したり遠慮したりしながら音楽をやっていくことになりがちかと思う。処世の方法としてはそれもよしだと思うけれど、場合によっては自分がほんとうにやりたい音楽がそこではできない、しづらい、やりたいことを歪めてそこでできることをする、ということになりかねない。また、ほかの人にまでそうやって忖度すべきだ遠慮すべきだとしたり、そうしない人たちをあしざまに言ったり、牽制したり、どうかすると排斥しようとしたり、そうした事態になっている様子も現実のピアノの場まわりではどうもあるよう。

 

 そうした、誰でもが音楽できる場や機会があること、そうしたものを設けることは、社会としてはだいじなこと、有意義なことだと私は思う。どうかすると、ひとの表現を自他ともに抑え込みがちなこの日本の社会では、むしろ必要だとさえ思う。ひとが表現する可能性を保障するために。ピアノに限らずいろんな公開楽器が、音楽に限らず公開の表現の場が、社会のいろんな所に可能な範囲ででも設けられるようになるといいと思う。そのことは今後繰り返し言っていきたいと思っている。

 ただ、個人個人が自分の人生で自分の音楽をする、やっていくということを中心に据えて考えたときには、そうした場や機会に頼ってだけで音楽をやっていくよりは、自分でどんなに小さくても安物でも楽器を持ち、その楽器でできるだけの音楽をする、そういう音楽ができるようになることが、よいのではないかという気がする。

 そのほうが、自分の音楽ができるのではないか。少なくとも、自分の音楽ができる可能性を持つことができるのではないか。それはつまり、自分の音を持つ、自分で持つ、ということでもあるかと思う。

 

 自分がいま小物楽器に入れ込んでいるのは、自分自身が好きだから、それで自分の音楽ができるから、ということもありながら、そうした小さな楽器ならさまざまな境遇の人がなんとか自分で持てる、自分で音楽ができる、自分が音楽する可能性を文字どおり持つことができる、と思ったからというのがある。

 そして、どんな楽器にも、口笛にも草笛にも、声にも、自分の音が宿るようであったら。そんな自分の「音」を持っていたら。そうしたらそこからいつでもどこでも、そのときその場の状況判断はするとしても、時を越えていつまでも、自分の音楽が生まれ出てくるのでは。立ち枯れるそのときまでは。

 

 このひとりが音楽をする、ということの源は、そういうところにあるかもしれないとも思う。また別なところにもあるかもしれないけれども。

 

 

§

 

 自分はこどもの頃からいわゆる標準語と敬語で話していたらしく、親や先生から心配されていたらしい。テレビの見過ぎだったのだろう。

 でもいま自分がこどもたちと話すときは、いわゆる方言が無自覚にぽんと出てくる。方言が自分の言語なのか、それとも標準語のほうがそうなのか、ちょっとわからない。

 

 ただ、いわゆるアイデンティティという意味合いは自分はどちらにもないなと思う。こどもの頃は方言で話すコミュニティからはいじめられていたし、標準語を話すコミュニティは身近にはあまりなかったし、あってもけっきょく属しなかったのだなと、いま振り返って思う。

 

 自分の音、という話と通じるのかもしれないと思ってこの話を書いたのだけれど、自分の言語、というものが何らかのコミュニティ言語である必要はないのかもしれないとも思う。何らかのコミュニティ言語をもとにして自分の言語が成り立っているとしても、そのコミュニティに回収される必要や回収を求める必要はないだろうなと。そしてきっと回収しきれない。

 音楽でもそうだろう。自分の音楽が何かの特定の音楽文化、いろんな音楽文化のブレンドということも多いだろうが、そういうものをもとにして成り立っているとして、そういう音楽文化のどれかに「所属している」わけでは必ずしもなく、帰依しないといけないわけでもない。現代の日本の(そしていわゆる「西側」の多くの)社会にあっては。

 そして現実にいま誰かがやっている音楽、しようとしている音楽を、すべて何か特定の音楽文化のせいにしてしまうことも無理だろうし、音楽文化のほうから(たとえば音楽文化に所属していると自認する、忠誠を誓っている人々のほうから)あなたの音楽は我々の文化の産物だ、我々の文化に従わなければならない、と言うのも無理だろう。

 

 現実として、人ひとりのその人のする音楽は、特定の音楽文化の「中」にあるというよりはよほど、「外」にあるのだと思う。その文化に由来するかもしれず、いまも「外」から接しているかもしれないけれども。そしてたぶん言語も、そうなのだろう。

 そのような音楽をひとりの人として営んでいる。言語を営んでいる。それは、文化のほうの持ち物や所管なのではなく、自分が身につけた、自分のものにした、自分の音楽、自分の言語なのだということだと思う。

 

 自分の音を持つ。その音は何かの音楽文化に由来するかもしれないけれど、自分の音。発するかどうか、どう発するかを自分で決めることができる音。少なくとも、可能性として。

 だからその音は、既存の音楽文化、音楽のコミュニティ(なるものがあったとして)を離れて、独自でありうる。もちろん既存の文化の規範や基準に合わせようと努力することもできる。その人の意思で。既存の文化に引きずられているかもしれないが、それを発するかどうか、どう発するかは、やっぱりその人が決めることができる。

 そういう音が、鳴っている。聞こえている。そう考えると、この世の中でさまざま聞こえる誰かの音楽、その人の音が、文化どうこうの前にそうあるその音として音楽として聞こえてくる、聴くことができる、そんな可能性が開けてくるのでは。

 やっぱり、そんな音がどこかでしている、そんな世の中であるのがいい。方言でも標準語でもない、あるかもしれないけれども分けられない、割り当てられない、その人の音が。

 

 

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 自分には自分の音があるのだろうか。失くしてしまったのではないか。壊れてしまった、壊してしまったのでは。そんなふうにも思いながらこの話を書いた。

 いま自分は、どんな楽器でも、ゆっくりと静かに、音をぽつぽつと鳴らしていくほうが充実感がある。そういうときの音は、曲でなくてもいい。1音1音、1ストローク1ストローク

 そしてそういう音も、これは自分の音かと自分で考えると、どこか浮わついていて、自分から発したもの、かけがえなく発したというものではなく、そのときその場でなんとなく発した、それだけのものだという気がしてくる。

 それだけのもの。それ以上でもないけれど、それ以下でもない。そういうことなのだろう。それだけであるということはわるいことではなさそうだとも思う。

 そんなふうに音を鳴らす日々を送る。当面、それしかなさそうだし、それならそういう日々を送りたい。自分の音は自分にとって近くて遠いのかもしれない。