或る草の音

そこにある音楽 ここに置く音楽

生まれたものの「かさ」

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人が生きるところには音楽が生まれうる。言葉、声かもしれないし、舞踊かもしれないし、絵を描くようなことかもしれないけれど、どのような仕方で何のかたちをとるとしても何か生まれるし、それは音楽としても生まれうる。人がひとりいたら音楽が生まれる可能性はそこに少なくともひとつある。そう思う。

 

「才能」とか「教育」とかの何かの違いで発現する程度が多少違うのかもしれないけれど、可能性はそれぞれの人ひとりひとりにあるものだと思う。そしてどこかで誰かが発現させているものだとも思う。ほかの誰かに受け止められるか受け止められないかに関わらず。

 

その発現のどれにも、生まれたもののどれにも、生まれたものなりの固さ、重さ、「かさ(嵩)」のようなものがある。ほかの人たちが、あるいは生み出した自分自身が、どんなに軽んじようとも、その「かさ」はあるのだと思う。

 

 

しかしその「かさ」を、ひょっとして、だいじにするのでなく軽んじる文化を作って維持して広げてきたのではないか。音楽をめぐっては。音楽だけでなくさまざまな表現をめぐってそうだったのでは。

 

誰にあっても生まれうる音楽。そしてその生まれたものの「かさ」。世で言われる「音楽」のあれこれについては、そういうところから考え直す必要があると感じている。