或る草の音

そこにある音楽 ここに置く音楽

人に住む音楽 心に棲む歌

 

 音楽というより、この場合は楽曲と言ったほうが合っているのかもしれない。楽曲は心に棲むものだなと思う。

 

 このところ母の具合がすぐれず、いろいろと介抱のようなことをしている。

 先日、母の幼なじみの親戚の方が来られて母と話をなさっていった。直前の様子では会えるのか話せるのか心配だったというか、無理だと思っていたのだが、会うととたんににこにこして、同窓会の話や昔話をして、その日はとても機嫌よく一日を終えることができた。ありがたかった。

 そのことから教えられて、母が楽しく過ごせるよう心がけるようになった。

 母は歌謡曲が好きで、ただテレビを見るのが苦手なので、以前使っていたCDラジカセを枕元に持ってきてラジオ番組を聞けるようにした。歌のときは聴いているようだ。

 昨夜、母の具合がまたひどくなり、ラジオも聞きたくなさそうな様子だったので、母が以前聴いていたある歌手さんのアルバムCDをかけた。すると母が楽しそうに歌い始めた。あまりの変わりようにびっくりした。私もわかる歌を一緒に歌った。母はシングルカットされていないアルバムオリジナルの歌まで歌っていた。寝付く頃にはまた少し具合が悪くなっていたが、今日は楽しかったと言って休んだ。

 

 その歌手さんは最近はそのジャンルの歌から離れてらっしゃる様子で、母が好きそうな歌はこの先お歌いになるのかどうかちょっとわからない。でも母はこれからもこのアルバムを聴くたびに、喜んで歌うことだろう。

 

 特にいわゆる大衆音楽がそうなのだろうけれど、楽曲の作り手、歌い手、演奏者、そうした送り出すサイドの人たちが楽曲とその演奏を世に送り出すと、楽曲はまさにその人たちのもとを離れて、それを聴いた人に住みつく。ひとりひとりの、その人の心に棲み込むのだと思う。

 たとえば送り手の誰かが、あの楽曲は不本意だった、取り消したい、演奏をし直したい、などと思っても、その楽曲を受け取ってその楽曲が心に棲んでいる人たちのほうでは、その棲みついた楽曲のほうが生きている。歌い手が長く歌っているあいだに歌い方や節回しを変えることがよくあるけれど、その歌が心に棲んでいるほうでは最初に聴いてなじんだ歌い方や節回しがずっと棲んでいたりするものだろう。

 もっと言えば、その心に棲んだ歌を自分が歌っているうちに、自分なりの歌い方、節回しになっていくのでもあるだろう。歌のカスタマイズというか、「その人の歌」になっていくものだろう。

 

 歌を、楽曲を世に放つとはそういうことなのだろう。世の人はそのように、歌に、楽曲に親しむ。世に放たれた歌はそういうことになる。世の人の心に棲んでその人の歌になっていく。

 大衆音楽が大衆の音楽であるということは、あろうとするということは、つまりはそういうことなのだろう。あるいは、最後にはきっとそういうことになる、のだろう。それを願って、信じて、世に放たれた楽曲、歌も、きっとあるのだと思う。

 

 母はこれからもそのアルバムを聴くたびに歌い出すだろう。やっぱりそう思う。