或る草の音

そこにある音楽 ここに置く音楽

ストリートピアノでさまざまな方々の独特な音楽を聴いて、考えたこと

★ とても長い記事です §ごとのまとまりを少しずつ読んでいただければと思います 

 

§ はじめに

 

 「誰でもどうぞ」と置かれているピアノを自分は「パブリックピアノ」と呼ぶようにしているけれど、「ストリートピアノ」と言うほうがやっぱり通用しやすいので、この記事ではそう呼ぶことにする。

 

 ストリートピアノが当地でも数年前からあちこちで設置されるようになって、駅や商業施設などでいろんな方々がピアノを弾くようになった。弾くというか、鳴らしていく感じの方々も多い。でも、「弾く」と「鳴らす」の境い目はあるのだろうか。

 ストリートピアノというと、昨今のストリートピアノ投稿動画の影響で、「うまい」人、腕が立つ人だけが弾くイメージが世間一般には出来ているようだ。SNSではストリートピアノをそういうイメージで捉えているらしき声をたくさん見かける。でもストリートピアノは「誰でもどうぞ」なピアノだから、「うまく」ない人でも気軽に弾けるし、実際にいろんな人が弾いている。うまくない人がとつとつとピアノを弾いているのがいいんだ、ストリートピアノとはそういうものだ、と言う人もときどき見かける。

 それにしても世間の多くの方々のイメージとしては、実際のストリートピアノを実地でごらんになったことがある方でも、「うまい」人が「うまく」弾いていたり、「うまく」はない人がとつとつと弾いていたり、あるいはこどもたちが遊んでピアノを鳴らしていたり、もしくはおとながふざけてピアノを鳴らしていたりする、そのいずれかを思い浮かべることがほとんどなのでは…と思う。つまり、ピアノを「きちんと」練習して音楽を「きちんと」学んでどのくらいかマスターしてピアノを弾いている人か、いまピアノを「きちんと」練習している途中の人や練習を始めたばかりの初学の人、でなければ、こどもさんの遊び弾きや「いたずら」。そのどれかだという感じで捉えているのではないかなと思う。

 

 自分はいまのストリートピアノブームが来る前から地元の公共施設でパブリックピアノを10年ほど弾いて聴いてきて、この数年は当地のあちこちのストリートピアノを聴き弾きして、そこでいろんな方がいろんな演奏をなさるのを聴いた。その中で、ピアノを「きちんと」というか「正式」に習っている、つまり音楽大学など「正統的」なコースでピアノを学んだ先生に師事して長く習っている…というわけではなさそうだけれど、でもピアノをとつとつと弾くというよりは独自の仕方でそれなりに弾いている、そんな感じや様子の方々をときどきお見かけしてきた。

 そうした方々の演奏の中には、たとえば一般的な音楽理論やピアノの演奏法に「通じている」人が聴くと、おかしいと思うのでは…という感じの演奏もある。そういう理論的・技術的な面で音楽にそんなにくわしくない一般の方々でも、ふだん聞き慣れている音楽とは違うな、ちょっと変だなと思う演奏があるかもしれない。でも、そうした方々の演奏をじっくりと聴いていると、その方がその方なりに音楽をしようとしているのが伝わってくる。そしてたしかに音楽になっている気がしてくる。これもたしかに音楽なのだと思えてくる。

 ストリートピアノの場でときどき聴くことができるそうした演奏、そうした音楽のことを、いつか書きたいなとずっと思ってきた。そうした演奏、そうした音楽に各地のピアノの場で出会って、私は、自分の音楽観を見つめ直したり、自分の音楽をやっていく上での励みや支えにしたりしてきた気がする。投稿動画で見られるような「うまい」演奏ばかりがストリートピアノの場にあるのではない。そして「うまい」演奏ばかりが、「正統的」な何かに則った音楽ばかりが音楽なのではない。そのことを、そうした演奏、そうした音楽から、そのつど考えさせられてきた、そして教えられてきた気がする。この記事ではそうした方々の演奏、音楽を振り返って、考えさせられ教えられてきたその一端を書けたらと思う。

 

 そうした方々の演奏や音楽をどういう言葉で言い表したらいいか、だいぶ悩んでしまった。アートの分野だと以前だったらアウトサイダーアートなどの言い方があったし、音楽に関してもそういう言葉が使えなくはないのかもしれない。ただ音楽の分野はたとえばギターの弾き語りやバンドなどを、音楽を特別に「正式」に習ったわけでなくても自発的にするということがとても多く、そういう意味ではアウトサイダー、「正統」の外であることがわりとあたりまえな分野だと思う。

 とはいえ、音楽のそれぞれのジャンルにある程度「正統」だったり「伝統」だったり、あるいは「理論(セオリー)」だったり特定の様式の「アプローチ」だったりが何かあるのはあるだろうし、しかしそうは言ってもそれらのどれかが絶対的に正しいわけでもないし普遍的だというわけでもないだろう。そんな広い意味での「音楽」のあり方、さまざまな音楽が現にこの世界にあってそれらを人がそれぞれに聞いているという状況を考えると、そうした方々の演奏や音楽を何か特別な言葉で言うとしてもせいぜい、独特な演奏、独特な音楽、くらいにしか言えないだろうなという気が私はする。独自、ユニーク、などでもいいかもしれないけれど、あとで書くようにその方「独自」の演奏方法ではない可能性もあるので、独自と呼ぶよりは、さしあたり独特と呼ばせていただこうかと思う。これでもだいぶ失礼な言い方かもしれない。話をする都合上、そこはお許しいただけたらと願っている。

 

 ストリートピアノの場で出会った個々の方々を1人1人あまり追わない、1人1人の演奏のことをあまり細かく取り上げて書かない、そのほうがいいだろうという基本的な考えが自分にはある。プロでない方々はそういうふうに書かれることに慣れてらっしゃらないだろうし、書かれることでピアノの場に来づらくなってしまっては申し訳ない。ただ、今回はそれぞれの方の演奏の様子を書かなければ何も伝わらないので、今回は少し踏み込んで、私が聴いた演奏の様子を細かく書くことにする。

 演奏のよしあしを評価するというつもりはまったくない。というか、そうした音楽に出会えて自分はとてもよかった。そのことはまず先に書いておきたいし、記事を最後まで読んでいただけたら、どうよかったのか読み取っていただけるのではと期待している。記事の最後では、そうした演奏、そうした音楽がストリートピアノの場で聞かれたということについても、ひと考察したいと思う。

 

 

§ 1 続いていく音楽

 

 何年も前。もう日が暮れていたと思う。ある駅のピアノを若い方が弾き始めた。弾き始めたというより、最初は鳴らしているという感じに聞こえた。できあいの曲ではなさそうで、どうも指を適当に動かして音を鳴らしてそれを楽しんでらっしゃるのではないかという気がした。

 こうしたピアノの場では、ピアノに向かってただ鳴らしてみるようなご様子の方をよく見かける。こどもさんもおとなの方も。ドレミファをたどる方もいるけれど、そういうのも無くただ1音1音、1動作1動作、鳴らしてみているご様子のこともある。そして小さなこどもさんでなければある程度鳴らしたところでおやめになることが多いかなと思う。

 しかしそのときのその方は違った。違うのはしばらく聴いていてわかった。1音1音の断片ではなく、メロディーを弾くように一連の動きで(いわゆるレガートのように)音を鳴らしておられる。両手でそうなさるので、バッハなどの対位法音楽のように右手と左手の2つのメロディーがそれぞれに生まれて流れている、そういう感じに聞こえた。その音を聴いているうち、その方はただ音を鳴らしているというより、そのようにいまピアノを「弾いて」おられるのだと感じられてきた。

 そうなると俄然、聴いていたくなった。これはその方の音楽だ、いまここで生まれている音楽だと。その方は弾き続けた。白鍵だけでなくときどき黒鍵も鳴らして、たゆたう音の流れを生み出して止まることがなかった。よく聞く音楽のような抑揚、起承転結、そういったものも特になく、しかしただ単調なのでもなく、その方なりに何か思いながらなのだろうけれど調子をそのときどきで少し変えて、音楽を探りながら作っている、そんなふうに感じた。

 その方は一度お立ち去りになってご家族らしき方々のところへ戻ったと覚えている。そして、列車の時刻がまだなのか、またピアノに戻って来られて、同じように演奏をなさった。そしてわりとふいに、演奏を終えられたのだったと思う。たぶんトータルで30分くらいはお弾きになった。そしてご家族の方々と去って行かれたのだったと記憶している。

 その方の演奏を後から振り返って、ああこういう音楽の仕方があったんだ、と思った。即興演奏と言えば即興演奏。自分も即興演奏は自分なりにやっている。ただ、その方にとってはおそらくピアノを弾くということがふだんの暮らしの中にそもそも無くて、駅でピアノを前にして、ご自身が思っておられる「ピアノを弾く」ことを真似してみた、ピアノを弾くイメージをなぞって手を動かしてみられたのではないか。そんなふうにご自身が思う「ピアノを弾く」をともかくご自身の手でピアノで実行すれば、それは何かにはなる。「でたらめ」ではなくて、その方が思っておられることから生まれた、音の何か。それはつまり音楽にほかならないと、いまの私は思う。というより、この方の演奏を聴いたことが、私がそう思うようになったきっかけだったかと思う。

 

 その方が生み出しておられた音楽は、言うならば無調音楽、ドレミファソラシドのシステム(調性のシステム)で出来ているのではない音楽だった。それに対して、先日私がある駅のピアノの場で聴いた音楽は、無調ではなくドレミファのある調性音楽だったけれど、その方のようにどこまでも続きそうな、そして実際その方よりもさらに長く続いた音楽だった。今度はそのときに聴いた演奏のことを書きたい。

 そのときの方の演奏を最初聴いていて、何か私が知らない曲をお弾きになっているのだろうと思った。コードがあって、一般的な曲で使われるコード進行パターンが使われていて、メロディーも一般的な音楽として自然な感じで、ニ短調の曲に聞こえた。ときどきト短調変ホ長調に転調する感じ。そして技巧的な箇所もあり、ピアノを弾き慣れている方のようだった。ただ、長く弾いてらっしゃるのに曲の大きな起承転結がはっきりしない。同じメロディーやコード進行の繰り返しがなく、構造感がしない。手癖のように同じような音型がときどき出現するけれど、曲としてのかたちが無い。そんなように感じられてきた。これは即興演奏だと思った。即興で、いまメロディーを手元で編みながら弾いてらっしゃるのだと。

 それが確信できた時点で、お弾きになり始めてから10分くらいは経っていたかと思う。これはどんなふうにして終わるのだろう。最後まで聴いてみたくなった。もともといろんな方のいろんな演奏を聴きたくてそれぞれのピアノの場を訪ねてしばらくそこに居るようにしているので、この音楽を聴き届けて次の方を待つつもりでいた。ところがその方の演奏がどこまでも続く。ときどき調子が穏やかになったりして、何らかの構造というか音楽の中の変化やまとまりを意識されているようにも思ったけれど、どこで終わるかというのは聴いていて予見できない感じだった。

 駅の売店で買い物をしたりトイレに行ったりして戻ってきても、その方は弾き続けていた。そして、その方もまたふいに、演奏を終わった。弾き初めから1時間20分くらい経っていた。そのあいだノンストップで弾き続けられたのだろう。何事も無かったかのように荷物を背負ってその方はお立ち去りになっていった。その後ろ姿は駅を行き交うほかの人たちと何も変わらなかった。

 

 

§ 2 技のかずかず

 

 ストリートピアノの場でときどき、左手の伴奏でCのコード(C・E・Gの音、ドレミで言うとド・ミ・ソ)をずっと鳴らしながら何かの曲のメロディーを弾くという仕方の演奏を聞く。Cのコードが分散和音、たとえばドソミソドソミソの繰り返しのような、そういう伴奏のこともある。なにかそういう、とにかくなんでもCのコードを当ててピアノを弾くという方法が、むかしからどこかで言われていたのかと思うくらい、いろんなときにそうした演奏を聞く。

 学校の先生が教室のオルガンでこどもたちにそう教えていたり、その仕方で伴奏を覚えたこどもさんがおとなになって自分のこどもさんにそう教えたり、そんなことがあちこちであったのではないか。その曲だけをそういう簡略な仕方の伴奏で教わったのかもしれないし、あるいはそういうふうにCのコードを当てたらたいていの曲はだいじょうぶだとそのときに教わったかのかも。そうやって伴奏の当て方を覚えた方がそれを思い出して、いまピアノの場でそう演奏なさっているのではないか。あるいはその教わったとき以来、ずっとその方の暮らしの中でそうやって弾き続けてこられたのか。

 そんなことを思うようになった1つのきっかけが、ストリートピアノの場で聴いた、ある演奏だった。

 

 もうだいぶ前のことになる。週末だったと思うけれどあるピアノの場でたくさんの方々が、次に弾く人の登場を待っていた。それまでお弾きになっていた方々が腕の立つ方々で、たぶん次はどんな人がどんな演奏をするのかと期待して待っている方が多かっただろう。

 そこにお一人の方が出て来られた。見た目の印象を書くのは気が退けるけれど、朴訥な感じの方だった。その方がピアノに向かい、シンプルな感じの音楽を始めた。左手でC(ド・ミ・ソ)、G(ソ・シ・レ)、F(ファ・ラ・ド)ともう1つくらいのコードをかわるがわる鳴らして、右手でドレミファソと下のシあたりまでを使ってメロディーを紡いで。この方も即興演奏のようだった。やはり曲としての構造は無さそうだったが、情熱的で、大音量ではないけれど力強い演奏だった。一心にピアノに向かってらっしゃる感じ。聴いていて、そしてその方の一心なご様子を見ていて、おそらくこの方はどなたかからむかし、こういうふうにしたら音楽ができるよと教わって、いまそれをここでやってらっしゃるのだろうと、ふいに思った。そうやってピアノを弾くことをずっとどこかで続けておられたのか、むかしのことを思い出してひさしぶりに手を動かしておられるのか、なんにしてもそんなふうに音楽を生み出しておられたのだろう。

 その方が演奏を終えて、ピアノの周りにいたたくさんの方々が拍手を送った。その方はちょっと驚いたようだったが、弾き終えたという気分をおからだで出しながら、さっとピアノを後に歩き去っていった。

 

 左手でコードで伴奏をつける場合、いろいろなコードをどういう順番で使うか(進行)にはある種の定型がある。こういうふうに進行してフレーズを形作る、曲の節目を作る、盛り上げる、終える、といった進行パターンがある程度ある。むかしの歌謡曲やポップスなどはだいたい、そういう定型の進行をある程度守った伴奏で演奏されている。最近のポップスでも、定型のパターンがむかしとは違ったりするけれど、そういうものがあるのはあるようだ。

 ストリートピアノの場ではそうした定型の進行とは違う感じの、だいぶ独自な感じで、というよりもそのときどきの気分しだいのような感じで、コードを連ねていくような演奏を聴くことがある。いま書いたC・G・Fのコードでお弾きになった方もそういう感じだった。そうしたコードを使うことはむかしどなたかから教わったのかもしれないが、コードをどう連ねていくかはたぶんそのお弾きになる方ご自身の感性か意思か、気まぐれかもしれないけれども、ご自身で適宜コードを切り替えながら伴奏を当てておられるのだろう。その切り替えにその方の音楽性というか、その方なりの音楽のロジックみたいなものを感じることもある。

 あるピアノの場でよくお弾きになっているある方は、いつも演奏するレパートリーが決まっていて、伴奏も即興ではなく一定の型がある感じだけれど、でも一般的な伴奏ではないなと感じていた。あるとき、どういう伴奏なのだろうと少し分析するつもりでその方の演奏を聴いていて、ふと、メロディーが休符で休んでいるときにその直前のメロディー音を左手のベースで鳴らすという「技」を使ってらっしゃることに気がついた。メロディーが続いている箇所ではおそらくむかし覚えた伴奏をその方なりのご記憶で弾いておられるのだろう。そのご記憶が少し違っていたりもあるだろう。ただ、メロディーが途切れているときにどうするかをお忘れになったか、覚えている方法がしっくりこないのか、それをご自身で補ったり改良したりするつもりで、メロディー音をベースにはめるという方法を発明なさったのだろうかと思う。

 なんにしてもその「技」のおかげで、伴奏は途切れずにメロディーを支えて、曲が進む。レパートリーが固定していることも含めて、これがその方が音楽をする仕方なのだろう。

 

 同じようにC・G・Fくらいのコードを適宜切り替えて既製の曲を演奏なさる方で、右手に独特の「技」をお持ちの方がおられた。

 ピアノを習う習い初めの頃に、ドレミファソラシドの連なりを弾くときに親指を進行方向へずらしながら手のポジションを変えていく「技」を習う。これはクラシックにしてもポピュラーにしても使われるピアノ演奏のある意味基本的な技術で、この技術によって弾き手は手の大きさよりも少し離れた位置の音(鍵盤の鍵)を切れ目無く鳴らすことができる。

 しかしその方はこの技術を使わない。かわりに、次のような「技」を使われる。たとえばドレミファソを親指-人差し指-中指-薬指-小指と順当に鳴らした次に続けてその上(右側)のドを鳴らすとき、ソを鳴らした小指を一瞬でジャンプさせて右のドを鳴らす。近くで見させてもらったときに、最初そのジャンプの素早さに自分の認識が追いつかなかった。軽々とその技をこなして、どんなメロディーでも対応なさる。実際その方はさまざまな曲をたくさんお弾きになるのだった。

 いや自分は好きに弾いているだけですから、と、お話しするたびにその方はおっしゃっていた。最近お見かけしなくなった。四点支持の杖をつきながらゆっくりとピアノに向かわれていたお姿を、またお見かけできたら、また演奏を拝聴できたらとずっと思っている。

 

 ご自身のおからだの都合から、独特の技術をお使いになってピアノをお弾きになる方もおられた。

 ある駅で、装具をお使いになっている方がその装具を外してピアノにおつきになった。左手を動かすのに困難がおありのようで、どうもご自身の意思どおりに腕が動かずにひとりでに動いているような様子も見えた。右手でメロディーを一般的なピアノ演奏と同じ感じでスムーズにお弾きになり、左手は高い位置から鍵盤へ振り下ろすようにしてベース音だけを鳴らしていた。左手は振り下ろす前は大きく揺れて、音を取るのがとても難しそうに見えたが、しかしそれだけ振り下ろしているのにベース音はかなり的確に捉えられていた。振り下ろすので音はだいぶ大きいが、しかし鍵盤を叩くような動きには感じられなかった。「叩く」のとは明らかに違うことをなさっているように見えた。

 おそらく、ふだんからそうとうな練習をなさっているのだろう。ピアノを習っていて先生とそういう奏法を工夫して編み出したのか、ご自分でその奏法を編み出したのか、どちらにしてもたいへんな努力の結果だろう。そして、それだけピアノを弾くのがお好きでいらっしゃるのだろう。なんとか弾きたいと。そうして獲得なさった、その方なりの奏法なのだろうと思う。

 ひととき演奏をなさってその方は、外した装具を装着してピアノを後になさった。拍手をしたけれど、その拍手がぴんとこないご様子で、そのまま駅を去って行かれた。

 

 

§ 3 既成概念を揺るがす

 

 ストリートピアノの場でほかの方々の演奏を聴いていると、思いもかけない仕方で、音楽に関する自分の既成概念を自覚させられ、それが揺るがされることがある。

 お友だち同士らしきお二方のお一人がピアノをお弾きになっていた。私も知っている曲を、やや独自感があるコードの当て方でお弾きになっていた。ところが、ある曲の演奏がよくわからなかった。何をお弾きになっているのだろうと注意して聴くと、メロディーはやはり私の知っている曲なのだけれど、コードがわからない。メロディーとコードがぜんぜん合っていないように聞こえる。そういう感じの演奏を何曲か聴いているうち、はっと気がついた。メロディーはニ長調とかホ長調とか、曲それぞれにいろんな調でお弾きになっているのに、コードはずっと、C・G・Fというハ長調の主要コードを使っておられるのだ。そしてどうも、調がメロディーと伴奏とで違いながらもコード進行としてはそれなりに合っているような感じ。

 なぜそのような演奏になるのか理解ができなかった。メロディーがいろんな調で弾かれているということからすると、メロディーは何か楽譜を見てそれで知っておられるのだろうけれど、ひょっとして、調に関係なくコードはC・G・Fでいいと思ってらっしゃるのか。だとしたらちょっと声を掛けて、コードもメロディーの調に合わせないとおかしくなりますよとお話ししようか…と考えた。でもどうお教えできるのか。声を掛けるか迷いながら聴いていたのだけれど、ふと、ああこれもありなのかなという思いがよぎった。見ていてその方が響きがおかしいと思ってらっしゃる様子がない。これでその曲が弾けていると満足してらっしゃるようでさえあった。だとしたら、実際の響きがどうであれ、それをほかの人が聞いてどうであれ、その方にとってはこれで音楽ができている。そういうことなのではないかと思った。

 あらためて考えると、これはどんな曲でも最初から最後までCのコードを当てて弾く方法とそう違いがない。どういうコードを当てるかのいわゆる「正統的」な知識がないまま、でも音楽がしたいというとき、その曲を弾きたいとき、自分が覚えている唯一の仕方でとにかくコードを当て、伴奏をつけて弾く、それでその曲をともかく弾くことができる。であればそれはその人が音楽をすることを可能にするとても有効な、有益な方法だ。そういうふうにも思えてきた。そのくらい、このときの弾いておられる方はふつうな様子で弾いておられた。むしろ、ハ長調としてのコード進行自体は合っているようだったから、さまざまな調のコード進行をぜんぶハ長調のコード進行に直して弾いてらっしゃったということになるわけで、これもまた独特な「技」と言えるかもしれない。

 このときの体験は自分の調性音楽観をだいぶ揺るがした。調性音楽は音階と、それらを和音にしたときの響きの性質で組み立てられる。だから和音(コード)が違えば音楽としても変わってくる。コード進行が「おかしい」と音楽として成り立たない。ハ長調のメロディーにCのコードだけをずっと当てるのはCがハ長調のいちばん要めのコードだからまだわかるけれど、ほかの調のメロディーにハ長調のシステムのコードを当てるのは、そういう音楽をするという意思が特別にあるのでなければ(そういう音楽があるのはある)、おかしなことだ…というのが既成概念としてあると思う。私にかぎらず、クラシックなりポピュラーなりの西洋音楽を学んだ人は一般的にはこの既成概念の中で音楽を聴き、音楽を作っているだろうと思う。でもこのとき私がその方の演奏を聴いて知ったのは、その概念から外れた仕方で、既製の調性音楽の楽曲を弾いて「楽しんでいる」事実があるということだった。

 いや、その方ご自身も、何か変だなと思いながらお弾きになっていたかもしれない。それぞれの調でどうコードを見つけるか、使うか、お教えできるならお教えしたほうがよかったのかもしれない。でもそれはあのとき感じた事実感には反する。あのとき聞こえていた音楽、それをお二人で楽しんでおられるようだった様子、それらがあったことには反する。そういう気がする。その音楽とその様子がむしろ教えてくれたのだと、いまの自分は思う。これも音楽のひとつの仕方なのだと。楽しみ方なのだと。

 

 

§ 4 鳴らすことと弾くことと

 

 こどもさんがピアノを鳴らすとき、一般的なイメージとしてはたぶん、がちゃがちゃ乱暴に鳴らすというようなイメージが思われているのではという気がする。しかし現実のピアノの場で見聞きしていると、こどもさんそれぞれに鳴らし方はだいぶ違う。たしかにがちゃがちゃ乱暴に鳴らすこともあるけれど、最初からがちゃがちゃ鳴らすよりは、音をそっと鳴らしていてある時点から突然にばんと鳴らしたり、ある程度大きくなったこどもさんが明らかにいたずら目的でがんと鳴らすということが多いように思う。むしろ、ピアノに初めて触れるこどもさんは、少なくとも最初はそっと鍵盤を押さえて音を鳴らすことが多いのではないかという所感を自分は持っている。

 小さなこどもさんは鍵盤のうちの自分のからだが届くあたりでともかく手指を動かして音を鳴らしていることが多いように思うが、あまり小さくないこどもさんだと、ドレミがわかるほどの年長さんでなくても、音をこういうふうに鳴らすという意識があってそのように鳴らそうとしている様子、少なくとも鍵盤をこういうふうに押すという意識があるらしき雰囲気を、こちらが感じるときがある。優しく鍵盤を押さえるとか、ある所を鳴らすと次に別の所を鳴らすとか、ある所を鳴らし続けるとか。メロディーらしきものを鳴らそうとするこどもさんもいる。そうしたことは、ピアノを「弾く」意識と言うなら言えると思う。というよりそういう意思で音を鳴らすということとピアノを「弾く」こととの境い目は、無いような気がする。もっと言えば、音楽をすることとの境い目は。

 

 あるピアノの場で出会った方。その方と最初どんなふうに出会ったか覚えていないのだけれど、たしかほかの方がピアノを弾くのをその方が聴いてらっしゃったのだと思う。そのときにその方か私かどちらかから話し掛けて会話になった。たぶんその中で私がその方にピアノを弾くのを勧めたのではなかったか。もしくはその方が、弾いてみたいけど…とおっしゃるのを私が後押ししたのか。

 その方はピアノに向かうと、最初はぽつぽつといくつかの音を鳴らしていたのだったかと思うが、やがて両手の手のひらを開いて鍵盤を広く押さえるようにして、たくさんの音を鳴らし始めた。ピアノの演奏技法にこうした技法があり、クラスター奏法と呼ばれている。音の塊(クラスター)で音楽を作っていくわけだ。クラスター奏法で鳴らされる音はいわゆる「不協和音」の連続になる。多くの方々には聞き慣れない、どこかで聞いてはいてもあまり好んではいない、そういう音かと思う。こどもさんが音をがちゃがちゃ鳴らすのはたいていクラスターになっているけれど、いまの私の話からそのがちゃがちゃなイメージが湧く方も少なくないかもしれない。

 その方はペダルを踏んでクラスターを響かせていた。音量としてはかなり大きかったけれど、ただ、なんというか鍵盤をふんわり押して鳴らしていた。手首のクッションを活かして、がちゃがちゃではなく、あえて柔らかい音を鳴らそうとなさっているようにも見えた。不協和音は不協和音なのだけれどどこか優しい感じが沁み出ていた。それはその方が「ピアノを弾く」とはこういうことだと思っておられてその素直な表現なのか、その方がいま表現したいのがそういう感じの「こと」なのか、何かそういう姿勢や気持ちであのときピアノに向かっておられたのだろうと、後から思った。

 あの方がピアノを鳴らしたのか、ピアノを弾いたのか。その区別はちょっとできそうにない。どちらだろうとあの方はあのとき、音楽をしていた。それはまちがいないことのように思う。それがあのときあの場におられたほかの方々から音楽に思われようと思われなかろうと、不協和音だと思われようとでたらめだと思われようと、あれは音楽だった。その方の優しかったクラスター奏法が、そのことを如実に物語っている。

 であれば、その方にかぎらずほかの人たちの、ただ鳴らしている、でたらめに鳴らしている、そんなふうに思える音も、でたらめというよりは音楽なのではないか。そう思って聴けば、何か、そこから聞こえてくるのではないか。音楽としての何かが。それは、こどもさんでもそうなのではないか。そのこどもさんなりの何か、意思ある取り組みが、おとなになって音楽についてある意味「訳知り」になった私たちにはわかりにくいだけで、でも何かがあるのではないか。

 そう思っていま実際のピアノの場で、こどもさんやおとなの方々が鳴らしている、ただ鳴らしているようでもあるピアノの音を、聴いている。そうするとそれなりに何かが聞き取れるようでもある。その聞き取った何かをあまり確実視したり確定視したりはしないでおいたほうがいいかもしれない。けれど、聴けば何かあるかもしれないとは思い続けていたい。自分はそういうふうに聴いていこうと思っている。

 

 

§ 振り返って

 

(1) それぞれの仕方で音楽をする、音楽になる

 この記事で書かせていただいたさまざまな方々がそれぞれ、ピアノを習ってらっしゃったことがあるか、現在習っておられるか、音楽の勉強をどのくらいなさったことがあるか、どのようになさっているか、そういったことはわからない。ただ、それぞれの方々が弾いておられた様子を振り返ると、初めてあるいはほぼ初めてピアノに触った方、少なくとも過去の一時期にピアノを習っておられたかあるいは独学でピアノを弾いておられた方、いま現在ピアノをどこかで弾き続けてらっしゃる方が、それぞれいらっしゃるだろうなと思う。そしてそれぞれなりの仕方で、ピアノを弾き、音楽をなさっているのだと思う。そこを少し振り返って考えてみる。

 Cのコードだけで伴奏をつける方法のことを上に書いた。そこにも少し書いたけれど、たとえば教育関係の分野で、先生がピアノを弾くときに簡易に伴奏をつける方法もしくは窮余の一策として、あちこちで教えられてきたような事実があるのでは…と私は推察している。それはそうだとしたら全国規模くらいに広まっている方法なのかもしれないけれど、そういう広く教えられた方法ではなくて個人対個人で、たとえば学校の音楽の先生がこういうふうにしたら音楽ができるよ、簡単な音楽が作れるよ、みたいなことをこどもさんに教えて、そのこどもさんがその方法でずっと音楽をし続けているというようなこともあるのでは…と思う。CやGやFのコードを取り替えながら即興演奏をなさっていた方は、そんなふうにどなたかから音楽の仕方、作り方を、教わったのではないかと私は勝手に思っている。それをいまもどこかで実直に実行なさっていて、たまたまそこのピアノの場でそれを実演してくださったのだと。それは私の思い込みかもしれない。でも、ストリートピアノでそんなふうに独特の演奏をなさる方々の中にそういう方がおられる可能性は、あると思う。その可能性があることをその方の演奏から教えてもらったのだと思っている。

 また、むかし習った弾き方を部分的に忘れてしまい、それをご自身で考案した方法で補って演奏を続けてらっしゃるということもあるだろう。ベース音をメロディー音で補っておられた方がそうだったのでは…と私は思う。そしてそういう独自な補完みたいなことは、ひとりでピアノを弾き続けているときっとごくふつうにある。そんなふうにして人それぞれに、自分なりのピアノの弾き方、演奏方法を、作っていく面がきっとあるのだと思う。音楽理論やピアノの一般的な奏法の観点からみて突飛だったりしても、それがその人の培ってきたその人なりのピアノの弾き方、音楽の仕方ということだろう。どんな調のメロディーにもC調のコードを合わせていた方も、その方がたぶんご自身で開発して熟練してきた方法なのだろうし、いつかもっと「正統的」な方法を知ってそれが取って替わる時が来るとしても、いま現在はその方が楽しんで音楽ができる有効な方法でもあるのだろうと思う。

 左手を振り下ろしてベース音を鳴らす方がどのようにその奏法を習得なさったのかも私にはわからないけれど、その方がピアノがなんとかして弾きたくてご自身だけで努力なさってその方法を開発なさったのか、それともどなたかにピアノを習っていてその方法を一緒に開発なさったのか、ではなかろうかと思う。そしてその方法を身につけて、ご自身に合ったピアノの弾き方、音楽の仕方を、実行なさっているのだろう。

 音楽の仕方を直に習うのでなくても、誰かがピアノで音楽をしている様子を過去に見聞きして、ピアノとはこういうふうに弾くのだというイメージをそこから得て、そのイメージのようにピアノを弾いてみる。そういうことも、上に書いたうちのどなたかにはあったのではないか。ストリートピアノの場ではこどもさんがピアノを鳴らすことがよくあるけれど、その鳴らし方は上に書いたようにこどもさんそれぞれで違う。たぶん、こどもさんが見聞きしてきたピアノ演奏の様子がそれぞれに違うのだろうと思う。それはおとなの方が初めてピアノを鳴らす場合でもそういうことがあるだろうと推察できる。その方がイメージしている「ピアノを弾く」ことをなぞってピアノをお弾きになっていた方も、上に書いた中にはいらっしゃっただろう。そんなふうにしてその方のイメージでピアノを弾けば、それがその人ならではの独特な音楽になっていくのだと思う。それについては後でもう少し書きたい。

 

 上に書いたさまざまな演奏をなさった方々と、「正式」に音楽を学んだというか、「正統的」な音楽文化を学んでそれに沿った音楽をしている方々との違いは、突き詰めて言うなら、所定の音楽文化に備わっている規範に沿って音楽をする知識や技能をいま持っていて、その知識・技能を使って音楽をしているかどうかの違いだろうと思う。それ以外のこと、たとえば表現する意思の明確さや意志の強さみたいなことの違いは、あるとしても程度や強度の違いではないかと思う。というよりそれらは、違いがあるのだと他人が決めつけることができない性質のことであるように思う。

 特定の音楽文化、特に古くからの伝統に根ざしていたり広く人々に受け入れられ親しまれている音楽文化、具体的にはクラシックやジャズやポップスなどの大きなジャンルを成して世界各国で親しまれている音楽文化のどれかに通じて、その音楽文化の優位性みたいなものを信じている人や、そうした文化に自分の人生を懸けてきた人からすると、そうした音楽文化が持っている規範や価値規準からずれていたりそれらに適合していなかったりする音楽は音楽でないように思えたり、そうした文化に則しようとすることが音楽であることの必要条件であるように思えたりする場合があるかもしれない。そうした文化の中で音楽をしてほかの人たちの音楽をその文化の価値に照らして聴いて評価を下すのも、それはそれでそういう道なのだろうと思う。

 そのいっぽうで、そうした個別の音楽ジャンルのどれかに、そしてその伝統に深く根ざすのでなくても、人は、音楽することを自分で知っているのでは。そして現にやっている人がたくさんいるのでは。そう私は思う。こういうふうに体を動かして音を鳴らす、こういうふうに音を立ててみようとして音を鳴らす、そういうときにはその人はある意味でたしかに、音楽をしているのだと思う。私がそう思うようになったのは、こうしてストリートピアノの場でさまざまに音を鳴らしている方々の音を聴き、そこに音楽を感じてきた、その経験があったからだと自分で思う。上に書いた方々はどなたも何か、こうしようとして、それぞれに何かしらを思って、音を鳴らしておられたようだった。そこには音楽への意思があったと私は思う。

 そして人が何かを思って音を鳴らすことをしているとき、それは音楽になるのではないだろうか。手を動かして右手と左手とでメロディーを生み出していた方は、おそらくその方ご自身が思う「ピアノを弾く」をご自身の手でピアノで実行していた。優しいクラスター奏法の方もそうだったろう。そうした、それぞれのその方の思いから生まれた音は、何かにはなる。そういうふうにその人が何か思って音を鳴らしたその結果の何か、それがつまり音楽だと。そして私にはたしかに、その方々の鳴らしていた音が音楽に聞こえた。

 上のどなたも、音楽をなさっていた。そう思う。というよりそうとしか思えない。「その方なりに音楽をする」ということがある。そういうことができる。そしてそういう音楽があるのだと思う。

 

(2) 生まれざる音楽が生まれ、知られざる音楽が知られる場としてのストリートピアノ

 世の中にはそんなふうに、その方なりの仕方で音楽をしている方がたくさんいらっしゃるのだろう。「正式」な音楽の勉強をして「きちんと」楽器を習ってという道でなくて、あるいは「正式」な勉強を一時期していたり誰かから習ったりしてもどこかの時点からご自身なりの仕方で、音楽をしている方が、ピアノに関してもたくさんいらっしゃるのだと。そうした方々がなさる音楽の一端を、私はストリートピアノの場で聴いたのだと思う。

 そうした方々は、ふだんはどこで音楽をなさっているのか。お家にピアノがあってそこでずっとひとりで、せいぜいご家族に知られるくらいで、弾いてこられたのかもしれない。でも、むかしピアノを手放してそれ以来弾いていないという方も少なくないだろう。

 そうした方々の演奏、音楽は、ほかの人に知られないままずっとその方とともにあったのだろうと思う。場合によっては、音にならないまま。そうした知られざる音楽が、ストリートピアノで実現した、この世に音として生まれ出た。私が聴いたのはそういう音楽だったのかもしれない。そう考えると、ストリートピアノはそうしたひとりで音楽を続けておられた方々の音楽がこの世界に生まれ出る1つの新たな機会だったのかもしれないし、それを私やほかの方々が耳にする場、窓だったとも言えるかもしれない。

 逆に考えるとそうした方々の音楽は、ストリートピアノの場ではじめて、人に知られる音楽になったのかもしれない。そうした方々はたとえばライブハウスでご自身の音楽を披露なさったり、ステージに立ったりなさるだろうか。レッスンを受けてピアノを弾いている方々なら発表会などの機会があるかもしれないが、ご自身ならではの音楽をひとりでなさってきた方々はどうだろう。いまは一般参加型のピアノイベントも開かれたりしているが、そういうところにエントリーしてご自身の演奏を披露したいと思われたりするだろうか。そうまでするつもりがない、という方もそうとう多いのではと思う。でも、ストリートピアノのようにふだんの生活のそばに、すぐそこにピアノがある、という状況があったなら、ピアノがあるからちょっと弾いてみようという気持ちになることはありそうだ。上に書いた方々のうちにもそういう方が多かったのではという気がする。

 そして、そもそもピアノを弾いたことがまったくない、あるいはほとんどない方も、そこにストリートピアノがあることで、ちょっと弾いてみよう、鳴らしてみようと思って、音を鳴らしてみる、ということがたくさんありそうだ。上に書いた音楽のいくつかはそういう方の音楽だったのではないかと思う。そういう方はなおのこと、ステージやイベントでピアノを弾こうとは思われなかっただろう。すぐそこにピアノがあったからこそそうなさって、その方の音楽が生まれたのだろう。

 そうしてみると、ストリートピアノはそういう生まれざる音楽がこの世に生まれ、ほかの人たちに知られずに営まれてきたその人の音楽がほかの人たちに聞かれ、届く、そういう機会になりうる場なのだろう。きっと実際にそういう機会になっているにちがいない。上に書いた方々の音楽を思い出しながらそう思う。

 

 そのことを「ほかの人たち」のほうに即して考えてみると、この世の中のどこかでさまざまな人がその人なりの音楽をやっていることを、ほかの人たちは知っているだろうか。そういうふうに音楽をしている方のご家族ご親戚ご友人であれば知っているかもしれないけれど、そういうふうに世の中のいろんな人が音楽をご自身なりの仕方でやっているという認識までは持っているだろうか。そして、ストリートピアノの場ではじめて実現した音楽は、ほかの人たちにはもちろん初めて届くわけである。そんなふうに楽器があれば、そこに人が訪れたなら、そこではじめて生まれる音楽がある。そんなふうに音楽することができる。そういうことが世の中の人たちに認識されているだろうか。

 ストリートピアノはさまざまな人の音楽表現が生まれる場であるわけだけれど、さまざまな人の音楽表現にほかの人たちがたまたま接することがある、そんな場でもある。こうしてストリートピアノでさまざまな方の音楽を聴き、そのことを書いてきたいま、ストリートピアノは、世の中にたくさん出回っている「正式」な仕方でなされている「正統的」な音楽のほかにも、こうした音楽の仕方があるんだ、こうした音楽がありうるんだ、ということを、社会の人たちが知ることができる場でもあるのだと思う。

 というより、ピアノにかぎらず音楽にかぎらず、市井の人たちのそうした「生の」表現に接することができる機会、場というものが、いま私たちの社会にどのくらいあるだろう。どのくらい保障されているだろう。プロやプロを目指す人たちの研ぎすまされたパフォーマンスとは違う、ただ音楽をしている人たちの、あるいははじめて音楽をしてみた人たちの、その人なりの表現。そういう表現に触れることで人は、人の何たるか、表現の何たるか、音楽の何たるかを、より広く知ることができるのではないだろうか。より深く考えることができるのではないだろうか。そういうきっかけを与えてくれる場がストリートピアノのほかに、この社会にいったいどれくらいあるだろう。

 

 ストリートピアノの場で聴いたさまざまな方々の独特の演奏、独特の音楽が、そうしたことを考えさせてくれた。きっと、もっと多くのことをこれから、考えさせてくれるにちがいない。その可能性があるというそのことだけで、私にとってストリートピアノは、大切な場だ。そして私だけでなくて世の中のたくさんの人に、その可能性は開かれているのだと思う。

 

 

§§

 

 あのときのあの方々の演奏、音楽を、独特という言葉で特別にくくることは、心苦しかった。そういうことはもうしなくていいだろうかと思う。それぞれの方のその方なりの音楽。音楽なのだから。「正統的」であってもなくても、その方の音楽を、その方から発する音楽を、これからも私は聴きたい。

 

 

 

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