或る草の音

そこにある音楽 ここに置く音楽

草としての音楽

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まちの草を見るようになって20年少し経つ。音楽への関心と草への関心とはもともとまるきり別なものだったけれど、このごろ音楽と草とを取り合わせて考えることがよくある。あまり結びつけたいとも思っていなかったのだが、このごろは底で通じるものを感じている。

 

音楽は草のように生える。自分の音楽は自分にとっては草が生えてくるように生まれてくるし、自分がどこかの場所で自発的に演奏をするときその場所にとって自分の演奏は自然と生えてきた草のようなものなのだと思う。社会にとって音楽はある意味、ひとりでに生えてくる草のようなものなのだろうとも思う。

 

どこかの「場」において自発する。自生する。音楽もそういうものだろうと思う。世話したり育てたりすることもできるし、放っておけばそれ自身として育っていき、枯れる。そして往々にしてその生えてきた「場」から駆逐され、その「場」に都合の良いものが残され、都合の良いものに作り替えられる。

 

たくさんの人が楽しんで聴く音楽は、草が選別され改良された園芸品種の草花のようなものだと思う。園芸種の草花がもっぱら鉢や花壇で育てられ愛でられるように、イヤホンの中や演奏会場で鳴り響く。

 

園芸種の草花ばかりが草花ではない。でも多くの人は園芸種の草花しか草花として見ていない。

 

街にも園芸種の草花を植えたがる。街はもともとそこに生えていたたくさんの植物を放逐しながら出来てきた。草が生えないようにされた土地の隅にかろうじて草が生え、人はそれを引き抜いたり枯らしたりして無くし、そうやって無くしたはずの草花を花壇に植える。自身に都合良くした草花だけを。

 

でも園芸種の草花だけが草花ではない。

それとまったく同じで、たくさんの人が楽しんで聴いている音楽だけが音楽ではない。

 

草を放逐し、草が生えないようにされた街に、かろうじて生える草たち。そのようにして街に生きている草たちは、街の人々に、園芸種の草花だけが草花ではないことを生きて示している。そして、ここにも草が生きているのだと示している。

 

同じように街に音楽が生えるとき、街の人々は、自分が聴いてきたものだけが音楽ではなかった、たくさんの人が知っている音楽だけが音楽ではなかった、これもまた音楽なのだと、気づくだろうか。

音楽はそのようにして生まれてくる、そのように音楽は街にも生まれてくるのだ、ここにも音楽は生きているのだと、知ることができるだろうか。