或る草の音

そこにある音楽 ここに置く音楽

自分律の音楽、音楽の自若、そして自由律の音楽

★ とても長い記事です 少しずつ読んでいただけたらと思います 

 

 以前このブログに、「自分律の音楽」という記事を書いた。日付を見るともう5年近く前になるようだ。

https://draume.hatenadiary.jp/entry/2019/04/05/005215

 

 内容をはしょって書くと、一般的なドレミファソラシドという音階のそれぞれの音の高さや音どうしの間の高さの差は、平均律とか純正律とかの規定の「音律」でもって決まっていて、専門家はふつうその規定に合わせて音楽をするのだけれど、一般の人が専門的なトレーニングなしで日ごろ歌ったり奏でたりしているときには、自分なりの音律で、自分なりのドレミファで音楽をしているのでは、という話。

 

 その記事を書いた後も考えを進めている。書いたことをもっと整理して仕分けしたほうがいいと思うようになったり、別な言葉で考えるようになったりしている。その現在地点と言うほど現在の考えがはっきりしているわけでもないけれど、それでも最新の考えを書かないとと思いながら、時間が経ってしまっている。

 それで、以前の記事を振り返りながら、その先の話、いまこう考えているという話を書こうと思う。

 

 自若、という言葉を使う。また、自由律という言葉をあらためて、特別な意味で使おうと思っている。

 

 

§ 自分律

 

 いまの自分が考えている仕方で、「自分律」の話を少し踏み込んで書いてみる。

 いまこの社会(日本の)でいちばんふつうな音楽は、ドレミファソラシド(およびその間の音)といったような西洋(西欧)音楽文化の「音階」を使った音楽だと思う。このドレミファ音階の音それぞれの音の高さ(音高)や音どうしの高さの間隔(音程)は、いくつかの方式で定まっている。平均律だったり純正律(純正調)だったり。そういう、音階の音の高さや音程を定める原理は、それで定まった音高のセットも含めて、「音律」と呼ばれている。

 いまのこの社会で、音楽をしたい人が音楽のトレーニングを受けるとき(日本の社会にかぎらず西洋文化圏でもそうだろうけれど)、ほとんどの場合は所定の音律に合わせて音を取るトレーニングをすると思う。よく言う「音程を取る」のはその1つ。音程が「取れていない」ことを問題視したり、音程が「取れない」ことを未熟だと考えたりして、取れるようにしよう、なろうとする。「音が外れる」というのも同様に問題視され、トレーニングでなんとかしようとする。

 でも、音楽のそうしたトレーニングを特別に受けていない一般の市井の人たちも、ドレミファソラシドで成り立っているポップスや演歌を、現に歌っている。歌うことができる。音程が取れているとかいないとか気にしないで歌うことができる。そうやって歌っているとき、その人たちはたぶん、だいたいのところで音の高さを把握して「音程を取って」歌っているだろう。

 専門的なトレーニングを積んでいないなら、ドレミファの音高や音程を規定どおりに「正確に」出すわけではなく、それらの「正確な」音高や音程がどういうものかもよくは知らないで、自分なりのドレミファの理解とその音の出し方、言ってしまえば自分なりの音律で、音を出して歌っているかもしれない。そのようなときの、その自分なりのドレミファの理解、自分なりの音律を、「自分律」と呼んでみたい。平均律でも純正律でもなく自分律で、歌を歌っているのだと考えてみたい。

 そう考えるとしたら、そうした人の歌を平均律とか純正律とかの既存の音律で定まっている音高や音程と合っているか外れているかという受け取り方ではなく、そして外れていたら音程が取れていないとか「音痴」だとかと言ってその歌を批判したり切り捨てたり矯正しようとしたりする接し方でなく、その人なりの音律で歌っているのだと思ってその歌を受け取ることもできるのでは。批判したり切り捨てたり直したりする対象でなく、それとして、そのような歌として受け止めて聴くということだってできるのでは。音楽のそういう受け止め方があるのでは。

 

 以前の記事でもおおむね、こんなことを書いたのだった。

 

 その記事の中に、言葉として「自由律」というのも考えたけれど今後使い分けをしたくて「自分律」と呼ぶことにした、という話を少し書いた。でもこの記事を載せた当時はまだ、使い分けをするほどには事柄の整理がついていなかった。

 その記事を載せてまもなく、「自若」(じじゃく)という言葉に思い当たって、この言葉はいいかも、と思うようになった。泰然自若の「自若」。それで、自分律という言葉や考え方ともども整理し直してそれについて書きたいなと、ずっと思ってきた。そのまま5年経ってしまったことになる。

 

 それで、整理できていなかった事柄を取り上げて整理しながら考えを進めて、以下、少し書いてみたい。

 

 

§ その人には「自分律」があるのか、それともないのか

 

 以前の自分律記事では次のようなことを書いていた。引用する。

 

***

おおかたの人は、だいたいのところで音階の音を取り、音程を取り、歌っているのでは。そして「多くの場合」、そうやってだいたいのところで諸々取りながら「歌う」ことに特段の不都合がないだろうと思う。多くの人で声を合わせて歌うときでも。

そして、その「だいたいのところ」というのも、社会文化的に固まった音律をしっかり参照した上での「だいたい」でもなく、たぶん、その人の心にその人なりの「ドレミファソラシド」があって、それに従って多くの人は歌っているのでは。そういう、その人なりの「ドレミファ…」なるもの。

 

***

 

 これについて、最近私は、その人なりの「ドレミファソラシド」がなくても人は歌を歌えるだろうと思うようになった。というか、ドレミファソラシドとは何か、けっこう多くの人がわからないまま、現に歌を歌っているのではないだろうか。

 いま出回っているポップスなどの歌の節回しはほとんどがドレミファソラシド(と、その間の音)で作られているわけだけれど、それを真似して歌うときに、ドレミファソラシドの知識や音の高さの記憶が必要なわけではないと思う。節回しの感じ、ここがこうなって次がこうなってという、音の高低の波というか抑揚を捉えてそれをなぞるように歌えば、それなりに歌える。ドレミファを知らないこどもの頃は人はそんなふうに歌を歌っていたはずで、そのようにして生涯ずっと歌っている人もけっこう多いのでは。

 むしろ、ドレミファソラシドのような音の高さの体系、仕組みを知ってそれに合わせて歌を分析して理解して歌っている人のほうが、少ないのでは。ドレミファソラシドという言葉は知っていても、それが自分が聴いたり歌ったりしている歌、音楽の、はたして何なのかをわかって歌っている人は、実はけっこう少ないのでは。

 そうすると、以前の私の自分律記事に書いていた「その人なりのドレミファソラシド」など持たないまま、自分なりに歌っている人も現にけっこういるのでは。たとえば歌手の人が歌う歌を聴いて覚えていて、それを真似して歌う。そのときには、ドレミファソラシドを意識して歌ってはいないかもしれない。節回しの抑揚だけを覚えてなぞって真似して。多少節回しを変えたりもして。人によってはすべての歌をそのように聞き覚えで、ドレミファで考えることもなければ無意識に音をドレミファのどれかに整理するようなこともなく、歌っているのではないだろうか。

 そうした人たちにさっきの、以前の記事から引用した話は、当てはまらないように思う。その人なりのドレミファソラシドがあってそれに合わせて歌っているわけではなく、別の仕方で歌っているのだから。

 

 

§ 聴く側が受け取ったものは「自分律」か、「自分律」と呼んでよいのか

 

 なので、やはり以前の自分律記事に書いた次のような話も、仕分けして考えないといけない。

 

***

視座を変えて、歌っている人の歌を聴くときのことを考える。その歌が社会文化的に固まっている(音階・)音律に合っている/ずれているという聴き方もあろうけれども、その人の(音階・)音律で歌っているという聴き方もできるだろうと思う。そのとき、その歌に聞こえている音律、その歌でその人が実現している音律。それを「その人の」音律として聴くということができるはずだ。

***

 

 以前の記事では私はこの、聴く側から聴いてそこに実現している音律をその人の音律として聴く、その聞こえた音律もその人の「自分律」だというふうに考えていた、というか、自分律という考えで括っていた。

 でも、その人が自分なりのドレミファソラシドを持っていないときに、それを聴く側で「その人の音律」だと呼べるものなのか。それには疑問がある。音律というものがあるのだとこちら側で思ってその考えに合わせて解釈しようとしているだけの、架空の音律でしかないのではないか。

 これについては、実際に測定器を使って調べてみたらある程度一定した音高、「音律」が検出できる場合はあるかと思う。それを「その人の音律」と呼ぶことはできなくはない、おかしくはないのかもしれない。ただ、それをその人の「自分律」と呼ぶのにはやはり疑問が残る。その人の「自分の」音律、なのだろうか。そして、そのようにその人本人が音律というものを「持っていない」ときに、聴く側のほうで音律がはっきりと感じ取れる、明確に検出される、という事態はそんなにあることだろうかという疑問もある。

 

 

§ あらためて、自分律

 

 いっぽうで、その人なりにドレミファソラシドをつかんでいて記憶していて、それに合わせて歌おうとしている人もたぶんたくさんいるだろう。専門的なトレーニングを受ければ、平均律純正律の音を記憶してそれで音が取れるようになる(かもしれない)わけだが、それ以前に、そこまでになるより前に、その人なりにドレミファソラシドを捉えている、そういうことはやっぱりあるだろう。そういうその人なりのドレミファの捉え方は、自分律という言葉がぴったりするように思う。

 

 そして、そのような自分律で歌っている人も、平均律純正律で歌っている人も、その音律ドンピシャで歌えているわけではたぶんなく、そこからのずれがあるものだろう。そもそもドンピシャに合っていると言うとしてもそれも程度のある話で、現実には「合っている」と言っても少々の誤差、ずれはあるだろう。そして、技術上の問題やたまたまの理由で、所定の音律に当てられなかった音も、あちこちで出しているはずだ。

 そのようなときに、それを聴いている側がその聞こえた音を「自分律」だと呼ぶのが正当なことなのか。それも疑問に思う。特に、その人なりの音律、まさに自分律をその人が持っているときに、そこから外れてしまった音を、聴いた側がそれは自分律だと聴き取るのは、捉え損ないを起こしている気がする。

 そういう意味で、聴く側がそこに実現しているように聴き取るものについては、別の呼び名を当てたほうがいいように思える。

 

 

§ 自若律

 

 上に書いた論点は、特に最初のものは音楽教育だったり音楽文化だったりについて考えるときにも重要な論点になると思うけれど、ここではこれ以上は深めないで、自分律という言葉で考えていたその考え方の整理をしたい。

 

 その人自身が捉えている音律、ドレミファソラシドであればドレミファソラシドを捉えているその仕方やあり方とその音像というのか、自分律と言うときにはそういったものを指して呼ぶのが、言葉の上でも概念としても適切だろうというふうに思う。その上で、その人の音楽において(ここまでは歌で考えてきたけれど歌に限らずにその人のさまざま奏でる音楽において)現にそのようになっている音律のことは、自分律というより、「自若律」と呼びたい気がする。

 泰然自若。何事にも動じず、そのように、あるがままにある、そういう状態。その言葉の「自若」とは、それがおのずとそのようであるそのこと、なのらしい*1

 その人が平均律で歌おうとしたのであれ、自分律で歌おうとしたのであれ、特に何かの音律に従ってではなくてたとえば歌手の歌の真似をして歌ったのであれ、それがその人にとって「うまく」音が取れたかどうかに関わらず、あるいは平均律などの既存の音律に合っているかそこから外れているかに関わらず、結果として歌声は何らかの音になり、何らかの音の高さや音程を取る。その、現にそのようになっている音律のことは、自分律と呼ぶよりも「自若律」と呼ぶのがよさそうに思う。

 

 

§ 音楽の自若

 

 ただ、音律に関して、現にそのようになっていると言えるほどはっきりとした音律が、たとえば聴き手に感じ取れるか、検出されるか、というのは、さっき書いたようにかなり疑わしい気がする。音高や音程はあまり定まらず、ただそのときそのときに何らかのかたちは取っている、そういうような聞こえ方をすることが多いのではないかと想像する。これは想像でしかないけれど。

 そういうときに、たとえば音律とか、音階、音高、音程といった、いわゆる西洋音楽文化の中で正統的な伝統的な音楽理論の概念とは別な何かの仕方で、そうした音楽を成り立たせている原理みたいなものを析出できる可能性もあるかもしれない。ただそうしたことを考える前に、私は、その音楽がそのようにある、その状態をそれとして捉える捉え方が、まずあっていいだろうと思う。

 

 出典をきちんと出せないのだけれど、だいぶ前にインターネットのどこかで見かけた話で、音楽ではステージの上で起きたことすべてが正解だと先生から言われた、という話をときどき思い出す。演奏する本人がこうしようと思ってもそうならなかったり、何か本人の外にある音楽文化的な基準や規範に合わなかったり、そういうことが現実の演奏では起きるのだけれど、その起きたことすべて、鳴った音のすべて、聞こえている音楽のすべてが、正解だという話なのだと思う。

 それはつまり、そのようになった(鳴った、成った)音楽がそれとしてあることを、肯定している話なのだろう。そのそうなってそうある音楽を受けてどう考えるか、今後の演奏でどうしていくかはともかく、このときのこの場の音楽としてはこうなのだと。

 それは、音律に限らず、たとえばテンポやリズムでもそういうことが言えるだろう。リズムが「おかしくなってしまった」演奏も、それはそれとしてそうなっている音楽なのだと。ピアノなどの鍵盤楽器だと音を外すときは音律がどうこうどころか半音とか全音とかの単位で外すわけで、それについてもやはりそうだろう。そうしたことすべて、それがそのようになってそのようである、自若なのだと思うことができると思う。その自若が、聞こえている、聞こえてくる、そういうものだと。ある意味、音楽とはそういうもの、そうあるものだと。

 その音楽のそのようにあること。音律のことに限らず、音楽がそのようにあるそのことを「自若」という言葉で言えるだろうと思う。自若の音律、自若のリズム、自若の何々と言っていく前に、自若な音楽。

 

 ただ、いろいろな音楽がある中で特別にそういう自若な音楽がある、というふうに考えるのは、筋が違うように思う。たとえば既存の音楽理論にはなんとも合わない、なんとも泰然自若とした音楽というものはあるとして、でもどんな音楽も、既存の音楽理論や音楽文化に立脚しようと努力してなされた音楽でも、そうした文化的な基準や規範と合わない、外れた面があるはずで、どうあれそのときのその場の音楽はそのようになっている。

 であれば、自若な音楽があると言うよりも、音楽のそうした自若性を言うほうが、音楽のそのようである事態をよりよく言い当てることができるだろう。そしてそうすることが当面だいじだろうというふうに思う。自若の音楽と言うより、音楽の自若。そこに新たに、あらためて、着目するのがいいだろうと。

 

 

§ 音楽の自若を考えることの意義

 

 というのは、そもそもこうした自分律とか自若とかの話をしているのは、既存の音楽理論や音楽文化の基準や規範から「外れている」音楽に対する風当たりが、あまりに強すぎるのではという疑念があってというのが大きいので。音楽を専門的にやっている人たち、やろうとしている人たちの間でそうした音が取れていないとか外れているとかを問題視するのはそれはそれとして、そうした人たちが世間で音楽をやっている市井の人たちとその音楽に、その風を当てていることがままあるように思う。それだけでなく世間の人たちが同じ世間で音楽をやっている人たち、やろうとしている人たちに当てる風も、なかなかひどいものがある。むしろそういう、世間で吹く風のほうが冷たいことも多そうだ。

 そのような中で、いやその音楽はそのようになっているのだ、音が合っているとか外れているとかでなくてその音楽を聴いて受け取るという道があるのだ、という話がもっと出回っていったら、そしてそう考える人がもっと増えていったら、音楽をすることも聴くことももっと幸福なことになるのではと、私は思う。

 

 いろんな場でたびたび書くのだけれど、世の中には自分は音痴だから、音楽の才能がないから、と思ったり言ったり他人から言われたりして、音楽をするのをやめた人がたくさんいるようだ。音痴とか音楽の技量とかいった事柄は特定の音楽文化や音楽理論の中で問題になる事柄であって、違う音楽文化や音楽理論の中では問題ではないかもしれず、それ以前に、人はそうした特定の音楽文化に所属したり特定の音楽理論を習得して技量に熟達したりしなくても、音楽することができる。

 音楽することはできるのだ。事実として。できるはずなのに、やめさせられている。やめざるを得ないようにまで思わされている。社会的に。社会の中で。そういう見立てを私はしている。

 そのような社会的状況が世間で繰り広げられ、たくさんの人が自分は音痴だから、才能がないからと、音楽することをやめている、やめさせられているのは、その人その人からこの社会が、世間の人々が、表現を失わせている、奪っていると言っても言い過ぎでない、そういう事態なのだと思う。

 これは、表現することを知っていて自身やっている私からしたら、理不尽だ。特定の音楽文化、特定の音楽理論の「中」でしか通用しないはずの規範を、そこに自ら所属したわけでも忠誠を誓ったわけでもないただの人たちに強いて、その人たちの自発的な表現を止めている。

 少し前にこのブログで、ストリートピアノの場でさまざまな方々がある意味気ままに弾く「独特な」音楽のことを書いた。そうした音楽は、特定の音楽文化に慣れ親しんでそれを規範だと信じている人にとってはおかしな音楽に思えるかもしれない。でもそうした音楽を聴いていて、そうした音楽にもそうなった理由がありそうだったり、聴きごたえがあったり、少なくとも何かの聴き甲斐があると私は感じる。そのように実現しているその音楽を、それに沿って聴けば、それなりの何かがそこにはあるとわかる。

 音楽の自若、ということを考えに入れると、そこにある音楽のそういう受け取り方ができるようになるのではと思う。おかしい、音が外れている、そもそも音楽になっていない、そんなふうに思ってその音楽を拒絶したり、それが聞こえてくることに苦しんだり、そうしたことがこの社会ではたくさん起きているようなのだけれど、それは特定の音楽文化や音楽理論に即して音楽を受け取ろうとするからそうなるのであって、音楽の自若のほうを受け止める姿勢があれば、そこは変わってくるのでは。苦痛ではなく、楽しさ、おもしろさ、そしてそれ自体の表している何かを、受け取ることができるようになるのでは。

 そのほうが、表現としての音楽、それをする人々にとって、そしてそうした音楽と隣り合う可能性があり、自身もまた何かの表現をしながら生きている、表現する可能性を持ちながら生きている、きっといつか表現をする、この社会のさまざまな人々にとって、しあわせなことではないのかと思う。

 だから事は音楽に限った話でもない。それのそのありようを受け止めることが、自分を含めたさまざまなありようの人々とその営みが社会の中でそのようにあり続けられる可能性を開き、担保していく、そのもとになるはずだと思う。

 

 ついでに書くと、世間の風のほうが冷たそうだという話は、もし実際にそうであるなら、世間の人たちがほかの人のやっている音楽を何らかの仕方でジャッジしていることを意味すると思う。むしろ世間の人たちこそ平気で、ほかの人の歌を音痴だと言ってけなしているのではという気もする。

 そのことは、ここまで書いた自分律などの話がかえってよく当てはまる事態なのかもしれない。ジャッジするその人その人は、何らかの基準を自分で持っているのだろうから。しかも、もし専門的なトレーニングを自分が受けたこともないのにほかの人の歌を音痴だと言えるのなら、その言う人はその人なりのドレミファを持っているか、あるいはその歌を歌う歌手の人の歌声を覚えていて単にそれによく合っているか外れているかのジャッジをしているのか、たぶんどちらかだろう。

 であれば、そうしたジャッジも、ジャッジした歌声も、それぞれにその人自身の自分律だったり、自分が記憶した基準の歌声だったり、そうしたそれぞれの基準でやっていることだということになる。その間に、ことさらにどちらかが正当だと言える理由があるだろうか。少なくともジャッジする側にことさらに正当性があるとは、この理屈からは言えないように思う。

 それぞれの人が、それぞれの音楽体験を通じて、その人なりの音律、音感と言ったほうが通じやすそうな気もするが、そういうものを育てて培って持っているだろう。そのそれぞれに、それぞれなりのそうなった経緯と現在がある。そう考えれば、自分の「音感」には合わないものも、そのようなものとして受け止める、受け入れるまではせずとも受け止める、そういうことはできるのでは。自分律、自若といった考え方はそういう可能性を導くだろうとも思う。

 

 

§ 余談として 自由律の音楽

 

 これが自分のいまの、自分律、そして音楽の自若という考えの現在地かと思う。音律は自分で自分なりのものを持ちうる。現に持っている人もいるだろう。そしてどういう音律を持っていようといまいと、そのときその場で音楽はそのなったようになる。そのようにある。

 このように考えると、このことを前提として、人は自分の音律を自分で意識して持つ、生み出すこともできそうだと思えてきた。そして、これが私の音律だと言い、それによって自分の音楽をしようとすることも。

 ピアノなど音高をプリセットしてある楽器ではちょっと難しいだろうけれど、声であったり、ヴァイオリンなどのフレットのない弦楽器だったり、たいていの笛だったりでは、奏者がソロ演奏の際に音の高さを自分のさじ加減で少し変えることがよくあると聞いている。楽器そのままでは平均律などの規定の音律が取りづらく、それに合わせるための微調整をするような場合もあるらしいけれど、そうした所定の音律からずらして表情を作るとか、指運びができるようにやむをえずとか、そういう奏者の裁量で音高をずらすことはままあると。

 その延長として、音律自体を音楽文化が定めている音律といくらか変えて、その人なりの音楽表現を作る、実行する実現するということはありうるし、できることだと思う。そもそも西洋音楽文化の中でも平均律純正律を使い分けたり、楽曲の生まれた時代を考慮した調律法を選択採用したりもするわけで、この現代に個人の表現活動として音楽を営む場合には、自分で音律を選ぶ、培う、作るというのも営みの一環としてありうることだろう。

 そのように自分が選んだ自分なりの音律で音楽をすることを、「自由律」の音楽と呼ぶことはできそうだし、言葉として合っていそうだと思う。自由という言葉の意味として。

 

 音楽は自由だ、と、しばしば言われる。現実、言われるほどに自由だろうかという気もしながら、でも自由だと思う。少なくとも音楽をする自由があるところでは、自由にできるはず。そうした自由の前で、ぽつぽつとでもこつこつとでも、自分の分の音楽の自由を、営みたいものだと思う。

 もちろん、声の、楽器の、場所の、さまざまな条件がある。その中で、その上で、そのもとで、自分の自由を着々と行使しながら。自分がそうしていたなら、やはりそのようにその人の自由を行使しながら音楽をしている人たちのそれぞれの音楽も、それとして隣り合うひとときが持てそうな、保てそうな、そんな気がする。気がするだけに終わるのか、現実そうやっていけるようになるのか。いくらかなりともそうやっていけたらと思う。

 

 音楽の自若に接しながら、それをどうにかこうにかでも受け止めながら、そこからその人の音楽がかすかにでも聞こえてきたらいいなと思う*2

 

 

 

 

*1:インターネットの辞書で調べると、泰然自若の自若とは動じず落ち着いていること、という説明がたくさんあり、実際その意味で言われているのだろうとも思うけれど、字義としては、自=みずからの、若=ごとし、であると考えられる。これが本来の「自若」の意味で、動じないというのは何事があっても「みずからのごとし」、変わらないということから来た派生的な意味だろうと考えられる。そのような解説をしているページもある。

*2:この記事を振り返って、自分はその人「ひとりの」音楽を考え、その人ひとりの音楽の肩を持ちたい、擁護したいのだなと、あらためて自覚した。音楽と言うとバンドやユニットやオーケストラやアンサンブルや合唱など、何人もの人たちで一緒にやっていく音楽がたぶんまっさきにイメージされるこの世の中では、またそうしたスタイルでなされる音楽にあっては、音を外す、音程が取れない、といったことが、音楽を損なうものとして捉えられることがふつうになってしまっているのだと思う。そんな世の中で、ひとりが音楽すること、ひとりに発する音楽、そういうものをだいじだと言っていきたい、その足掛かりの1つがこの話なのかとも思う。