或る草の音

そこにある音楽 ここに置く音楽

自分律の音楽

 

何年か前から、「自分律」の音楽、という考えをあたためている。言葉は固まっていない。自由律俳句という言葉からの連想。自由律と言うのでもよかったのだが、将来的にいろいろな言葉の使い分けをしていきたいと思い、「自分律」という言葉を作って頭の中で使っている。

 

音階(ドレミファソラシドなどの音の並び)・音律(ドレミファソラシドの音の相対的高さの決まり方)は社会文化的にいちおう固まったものがあって、音階としてはいまふつうに聞かれ使われるいわゆる西洋音階だったり(あるいは和物の音階だったり沖縄音階だったり)、また音律としては平均律だったり純正調だったりするわけだけれど、人は多くの場合、その社会文化的に固まった(音階はともかく)音律に従って音楽をやってはいないのでは。多くの人が歌を歌うとき、そもそもどのくらい、ドレミファソラシドを「きれいに」取ろうとしているだろう。

おおかたの人は、だいたいのところで音階の音を取り、音程を取り、歌っているのでは。そして「多くの場合」、そうやってだいたいのところで諸々取りながら「歌う」ことに特段の不都合がないだろうと思う。多くの人で声を合わせて歌うときでも。

そして、その「だいたいのところ」というのも、社会文化的に固まった音律をしっかり参照した上での「だいたい」でもなく、たぶん、その人の心にその人なりの「ドレミファソラシド」があって、それに従って多くの人は歌っているのでは。そういう、その人なりの「ドレミファ…」なるもの。

 

視座を変えて、歌っている人の歌を聴くときのことを考える。その歌が社会文化的に固まっている(音階・)音律に合っている/ずれているという聴き方もあろうけれども、その人の(音階・)音律で歌っているという聴き方もできるだろうと思う。そのとき、その歌に聞こえている音律、その歌でその人が実現している音律。それを「その人の」音律として聴くということができるはずだ。

 

ことさらに「自分律」の音楽をしよう、と努力するまでもなく、たいていの人はいま書いたような意味で、ふだん「自分律」で音楽をやっているのでは。あるいは、その人の音楽は「自分律」の音楽として成り立っているのでは。

むしろ、音楽を「勉強」した人、「音楽家」、そして社会文化的音律を内在化してそこから離れられなくなった人が、ことさらに社会文化的音律で音楽をしようとしているというのが、実態ではなかろうか。

 

にもかかわらず、「自分律」で音楽をやっている人が「自分は音痴だ」「音程が取れない」と苦にしていたり、それだからともう音楽をしなかったり(音痴だから歌わないという人がけっこうおられるだろう)、そういう事態もまた実態としてあるように思う。

そうした人たちにとっては、社会文化的(音階・)音律が、社会規範として機能しているのでは。その人なりには歌えていて音楽ができているのに、外的基準が規範として作用しているがために、音楽が「できない」と思い込んでいる。それは本末転倒なことではないかと私は思う。

 

この「本末転倒」という認識をこれから私は打ち出していきたいと思っている。ふつうは逆だと思われるだろうから。

 

ドレミファソラシドはどうあれ社会文化的産物で、自分律と言ってもそれをどの程度にか内在化したものだろう、という認識がふつうだろう。そもそも外的基準のほうが先にあって、個人個人の「その人の」音律なるものがあるとしてもそれはその外的基準を元に作られたのだと。

そう認識するなら「自分律」は特定の社会文化的(音階・)音律からの派生物であり、そこから「ずれた」ものでしかないだろう。私の認識のほうこそ「本末転倒」だということになるだろう。そしてそう思うほうが「ふつう」だろうとも思う。しかしその捉え方は、

1)正しいのだろうか。2)しあわせなのだろうか。

 

そのあたりのことを、これから何年か掛けてぐつぐつ煮込んでいこうと思う。さしあたり、1)正しいのだろうか、ということについて、いま思うことを少しだけ書いてみようと思う。

 

人間は社会文化的に「作られる」のだとして、それでも人間が社会や文化に隷属しているわけではない。私のからだが何やらの分子やら元素やらで成っているとして、何やらの分子やら元素やらを寄せ集めて私が出来るわけでもない。

むしろ私のほうが、自分を起点としてそこから遡る仕方で社会や文化を認識し、分子やら元素やらの存在を認識する、という立場にいる。誰でもそこは同じ事情だと思う。

たぶん、何かを本末転倒だと思っているその立場のほうが本末転倒である、という構造がしばしばいろいろなところにあるのだ。もう少し踏み込んで言うと、こうした転倒は始めようとすればいつでもどこでも始められ、続けようとすればどこまでも繰り返せるのかもしれない。

ただしかし、生きて暮らしているとき、その転倒の繰り返しはまだ始まっていないのではと思う。

音楽するときもそうだったのではなかったか。ただ、歌い始めていたのではなかったか。音を鳴らし始めていた、奏で始めていたのではなかったか。