或る草の音

そこにある音楽 ここに置く音楽

人に住む音楽 心に棲む歌

 

 音楽というより、この場合は楽曲と言ったほうが合っているのかもしれない。楽曲は心に棲むものだなと思う。

 

 このところ母の具合がすぐれず、いろいろと介抱のようなことをしている。

 先日、母の幼なじみの親戚の方が来られて母と話をなさっていった。直前の様子では会えるのか話せるのか心配だったというか、無理だと思っていたのだが、会うととたんににこにこして、同窓会の話や昔話をして、その日はとても機嫌よく一日を終えることができた。ありがたかった。

 そのことから教えられて、母が楽しく過ごせるよう心がけるようになった。

 母は歌謡曲が好きで、ただテレビを見るのが苦手なので、以前使っていたCDラジカセを枕元に持ってきてラジオ番組を聞けるようにした。歌のときは聴いているようだ。

 昨夜、母の具合がまたひどくなり、ラジオも聞きたくなさそうな様子だったので、母が以前聴いていたある歌手さんのアルバムCDをかけた。すると母が楽しそうに歌い始めた。あまりの変わりようにびっくりした。私もわかる歌を一緒に歌った。母はシングルカットされていないアルバムオリジナルの歌まで歌っていた。寝付く頃にはまた少し具合が悪くなっていたが、今日は楽しかったと言って休んだ。

 

 その歌手さんは最近はそのジャンルの歌から離れてらっしゃる様子で、母が好きそうな歌はこの先お歌いになるのかどうかちょっとわからない。でも母はこれからもこのアルバムを聴くたびに、喜んで歌うことだろう。

 

 特にいわゆる大衆音楽がそうなのだろうけれど、楽曲の作り手、歌い手、演奏者、そうした送り出すサイドの人たちが楽曲とその演奏を世に送り出すと、楽曲はまさにその人たちのもとを離れて、それを聴いた人に住みつく。ひとりひとりの、その人の心に棲み込むのだと思う。

 たとえば送り手の誰かが、あの楽曲は不本意だった、取り消したい、演奏をし直したい、などと思っても、その楽曲を受け取ってその楽曲が心に棲んでいる人たちのほうでは、その棲みついた楽曲のほうが生きている。歌い手が長く歌っているあいだに歌い方や節回しを変えることがよくあるけれど、その歌が心に棲んでいるほうでは最初に聴いてなじんだ歌い方や節回しがずっと棲んでいたりするものだろう。

 もっと言えば、その心に棲んだ歌を自分が歌っているうちに、自分なりの歌い方、節回しになっていくのでもあるだろう。歌のカスタマイズというか、「その人の歌」になっていくものだろう。

 

 歌を、楽曲を世に放つとはそういうことなのだろう。世の人はそのように、歌に、楽曲に親しむ。世に放たれた歌はそういうことになる。世の人の心に棲んでその人の歌になっていく。

 大衆音楽が大衆の音楽であるということは、あろうとするということは、つまりはそういうことなのだろう。あるいは、最後にはきっとそういうことになる、のだろう。それを願って、信じて、世に放たれた楽曲、歌も、きっとあるのだと思う。

 

 母はこれからもそのアルバムを聴くたびに歌い出すだろう。やっぱりそう思う。

 

 

ぽつぽつ即興のおすすめ

 

 

 自分はパブリックピアノ(ストリートピアノ)の場でぽつぽつと気ままにピアノを鳴らしたり、公園などでオカリナを気ままに吹いたりカリンバ類を鳴らしたりしている。それをとりあえず「ぽつぽつ即興」という言葉で呼んでいる。

 ピアノの場合は文字どおり音をひとつひとつぽつぽつと鳴らすこともあるし、いくつかの音が短いフレーズになるように連ねて、そういうフレーズをぽつぽつ鳴らしていくということも多い。オカリナだとそうした「その場フレーズ」を短く編みながら吹くほか、1回の息で長い音を、音の高さを息だけで変えながらゆっくりと吹いたりもする。なんにしてもテンポはあんまり速くなく、素早い動きは手慣れている動きだけにとどめる感じ。

 

 自分のYouTubeチャンネルに、自分があちこちで演奏したぽつぽつ即興を載せている。例として視聴していただけたら。

 

https://youtu.be/nP3YjupgAhc

この動画はピアノ。右手で鍵盤のひとつひとつを押していく仕方で弾いている。

 

https://youtu.be/glYlCcuV9_g

こちらの動画は同時に2つの音を鳴らしたりもしている。

 

https://youtu.be/HKDnISQL_40

オカリナではたとえばこんなふうに吹いている。もっとメロディーふうに吹くこともある。

 

こちらは載せているぽつぽつ即興のまとめ(再生リスト)。ピアノ、オカリナ、カリンバ類。

https://youtube.com/playlist?list=PLZqTJ76W98UPELVk-p6SFZUUV_Pz1ugZF

 

 このごろは、何かの楽曲を演奏するよりもこうしたぽつぽつな演奏、音鳴らしをしているほうが、なんだか充実感というか、楽器を鳴らしている、音に親しむという気持ちになれる。楽曲を演奏するのは自分の場合どうも、特にどなたかその場におられるような場合、その楽曲(自分が思っているその楽曲イメージ)になるように、音を合わせていこうとして力が入ったり、失敗したという気持ちやリカバリーしたい気持ちが出てきたりしてあたふたしてしまって、そうした充実感に至らないことがある。

 ぽつぽつ即興には間違いというものがない。いや、そのときどきで、何か音を鳴らした後にこの音ではないほうがよかったかも…と思うことはある。でも別に間違いだと思ったり言ったりする必要がない。その音から先へ進めていけば、何かにはなる。その、何かになっていくのを自分で感じ取りながら、でもこのいまは、この音を鳴らし、次の音を鳴らす。そうしていると、そのことにいつのまにか没頭没入している。それが充実感みたいなものにつながっているのかもしれない。

 

 音楽をするとはつまり、知っている曲を演奏すること、知らない曲に取り組んでそれを演奏できるようになって披露すること、というふうに思っている人もたくさんいると思う。でも、できあいの楽曲を演奏することだけが音楽ではなくて、音楽にはいろんな仕方があるはず。

 音楽に少し詳しければ、プロのプレイヤー、特にジャズの奏者が即興演奏をするのを聴いて知っているだろうし、即興演奏と言えばそういうプロの技を繰り出すもの、技術と才能とセンスの見せどころ、みたいなイメージを持っている人も多いかもとも思う。でもそれも即興演奏のひとつのあり方、もっとさまざまありうるあり方のうちのひとつなのだと私は思う。ぽつぽつ即興のような音数の少ない、音をひとつひとつ鳴らし、何かをゆっくりつむいでいくような演奏もまた、即興演奏の様態のひとつとして、あるのだ、できるのだと思う。そう思ってやっている。

 

 

 ところで、ぽつぽつ即興はパブリックピアノ(ストリートピアノ)を弾きたいけれど弾ける曲がない、自信がない、と思っている人におすすめできると思っている。自分は実際いろんなピアノの場で弾いているけれど、そうやっていて困ったこととか文句を言われたことが無いし、失敗がないから後悔することもない。まわりの人たちがどう思っているかは知らないけれど、それを気にしなければどうということもない。たくさんの人が知っているような曲を弾くよりはるかに気楽でいられる。だから、ピアノはさわってみたいけれど何も弾けない、弾ける気がしないというときにもいいと思う。

 たとえば鍵盤のひとつひとつを、ていねいに、ぽつんぽつんと押していく。どんな音が鳴るかをたしかめながら。そうやっていれば、まわりから見ても、まるきりでたらめに弾き真似をしているというよりも何か積極的に試しているように、音の探究をしているように見えてくるのでは…とも思う。

 もし少し「音楽」っぽく聞こえたほうがよければ(上のようなぽつぽつ弾きも音楽だけれども)、鍵盤の黒いところ(黒鍵)だけを鳴らしていくのがおすすめできる。ピアノやオルガンの黒鍵はそれだけを鳴らしていくと「五音音階」という音階、それも日本の童謡や歌謡曲などによくある「ヨナ抜き」音階になっていて、しかもどのような順番で鳴らしてもたぶん何かなじみのある音並び、音運びになる。

 もしピアノのペダルを使ってみたい気持ちがあったら、黒鍵をぽつぽつ鳴らしていくあいだ右のペダルを踏みっぱなしにしていたら、その鳴らした五音音階の音が残って、親しみやすい聞きやすい響きになると思う。それもおすすめしたい。

 もちろん、白鍵も黒鍵も使って、不思議な音の世界を繰り広げてみるのも楽しいと思う。ひょっとしたら、曲をがんばって演奏するよりこうするほうがいいと思われるかもしれないし、こういう音使いのほうが自分のやりたい音楽に近いと思われるかもしれない。

 

 

 音楽は自由だ、と言葉で言うのはぽんと言えるけれど、でも自由と言ってもどうしたらいいの?と思う人も多いと思う。たくさんの人がふつうにやろうとしている仕方、つまり、できあいの曲を演奏すること、それ以外の音楽の仕方をそもそも知らない人がやっぱり多いと思うし、それ以外の仕方で音楽をするなんて考えもしなかった人も多いと思う。

 「ぽつぽつ即興」という言葉はいちおう私が考えた言葉だけれど、私の占有物にするつもりはぜんぜんない。たぶんおんなじようなことをどこかでどなたか、なさっているだろうとも思う。

 「ぽつぽつ即興」の言葉を使っても使わなくてもいいので、これをやってみたいと思われたら、それこそ気軽にやってもらえたらと思う。それだけでなく、それを1つのきっかけにして、自由な音楽のいろんな仕方を見つけたり作り出したりして、自分の音楽をするという体験をぜひ、してもらったらと思う。

 

 ぽつぽつ即興、そして自分が作っているぽつぽつな音楽については、また記事を書きたいと思っている。

 

自分の音を持つ

★ 長い記事です パートごとに別な話なので、少しずつ読んでいただければと思います 

 

 状況によらずに、あるいは自分自身で状況判断をして、自分が自分で鳴らすことのできる、そういう音を持っているように。自分で持っているように。

 

 それがとてもだいじそうだと、このごろ思う。

 

 

§

 

 宮沢賢治の詩にある、「光でできたパイプオルガン」のことを思い出して、ときどき考える。

 

 「おまへのバスの三連音が/どんなぐあひに鳴ってゐたかを/おそらくおまへはわかってゐまい」と始まる、宮沢賢治の詩「告別」。

 その最後に、「光でできたパイプオルガン」が出てくる。

 

***

もしもおまへが

よくきいてくれ

ひとりのやさしい娘をおもふやうになるそのとき

おまへに無数の影と光の像があらはれる

おまへはそれを音にするのだ

みんなが町で暮したり

一日あそんでゐるときに

おまへはひとりであの石原の草を刈る

そのさびしさでおまへは音をつくるのだ

多くの侮辱や窮乏の

それらを嚙んで歌ふのだ

もしも楽器がなかったら

いゝかおまへはおれの弟子なのだ

ちからのかぎり

そらいっぱいの

光でできたパイプオルガンを弾くがいゝ

 

ちくま文庫 宮沢賢治全集Ⅰ 541-542ページより)

 

***

 

 楽器が無ければ、空にある光のパイプオルガンを弾くのだ、そう教え諭す言葉。

 自分がもし楽器を失ったら、楽器を鳴らすことが身体的にできなくなったら、自分は何を鳴らすことができるだろう。光でできたパイプオルガンを自分は弾くことができるだろうか。そういうふうなことを、たびたび考えた。そして自分でなくてほかの人に、楽器が無ければ光のパイプオルガンを弾いたらいいのだ、と言えるのかどうか。そういうことも考えた。

 あるいは、この詩にうたわれている、賢治からみて音楽の才能があるこどもさんのようでなく、楽器を鳴らしたこともほとんどない、楽器が鳴らせると自分で思ってもいない、そんな人も、光のパイプオルガンを弾くことができるのだろうか、と。

 

 ある頃、ツイッターでこんなことを書いた。

 

***

どら梅

@draume

·

2019年11月14日

 

このごろは出先で景色を見て立ち止まれる場所があると、立ち止まって景色のなかで心で音を「置いて」みたりする。

そのときの「楽器」はあまりはっきりしたイメージはなく、ピアノのようでもあるけれど、なんというか手乗りオルガン、ハルモニウムみたいなものをそっと鳴らしてみる感じ。

 

賢治の書いた「光でできたパイプオルガン」の自分版みたいなものかもしれない。

 

https://x.com/draume/status/1194982247733948421?s=20

 

https://x.com/draume/status/1194982639444168705?s=20

 

***

 

 

 光でできたパイプオルガンのことを考えるようになって、だいぶ経った頃だった。自分なりの「光でできたパイプオルガン」を見つけた、こしらえた、生み出した、のかもしれない。

 

 でもそれは自分が、鍵盤楽器が曲がりなりにも扱える、鍵盤楽器に親しんでいる、ともかく楽器で音楽をしてきた、だからそうできるのではないのか、そういう自分でなかったならそんなふうに音を心に鳴らすことができるだろうか。そういう疑念もあるにはある。

 ありつつ、自分はこうしているということではある。いまもおりおり、そうしている。

 

 

§

 

 オカリナやカリンバ類のような小さな楽器を持ち歩いて、公園や緑地や河原のような所で鳴らしている。日課にしているわけではないけれど、外出時にはたいてい何かそうした小物楽器を持って出る。

 私はピアノを弾くけれど、そして自分の人生の時間をいちばん向けてきた楽器はピアノだけれど、これらの小物楽器を持っていること、持ち歩いていることで、自分が音楽することを失わずにやってこれた気がしている。ピアノはピアノが無い所では弾くことができないけれど、小物楽器なら手元に持ってさえいれば、あとは自分の意思と判断とで鳴らすことができる。いつでもどこでも。

 

 パブリックピアノ(ストリートピアノ)を弾くようになって、そのあれこれに関心を持って世の中のパブリックピアノの弾かれ方の様子をインターネットや現地現場でうかがいみるようになって、パブリックピアノがさまざまな人が音楽する可能性を開いたこと、開いていることの、社会的な意義がとても大きいのを繰り返し思う。

 そのいっぽうで、個々のピアノの場にそれを弾こうとする人たちが(自分を含めて)集まり、あちこちのピアノを弾こうと駆け回る人たちが現れ、前の人が10分も弾き続けていると陰で文句を書く人も出てきた、そんなこのごろの様子を見ていると、自分もそうした状況に関わっていながらだけれど複雑な気持ちになる。

 

 パブリックピアノは、現状、誰かが設置するものである。弾く人にとっては、ほかの誰かが条件を用意して整えて、提供してくれているものである。自分自身がその設置運営に参画するというのでなければ。つまりは、作られた場、用意してもらった機会であるわけだ。

 そういう、作られた枠、用意してもらった枠の中だけで音楽ができる、というのは、ひとりの個人が音楽をする上で、好ましいことなのだろうか。それだとほんとうに自分が音楽したいとき、その人は音楽できるのだろうか。

 自分が音楽することの条件をほかの誰かの厚意や社会的制度に委ねていると、そうした諸々が変わると自分が音楽できなくなってしまいかねない。いきおい、そうした諸々が変わらないように、自分がそこで音楽ができ続けるように、忖度したり遠慮したりしながら音楽をやっていくことになりがちかと思う。処世の方法としてはそれもよしだと思うけれど、場合によっては自分がほんとうにやりたい音楽がそこではできない、しづらい、やりたいことを歪めてそこでできることをする、ということになりかねない。また、ほかの人にまでそうやって忖度すべきだ遠慮すべきだとしたり、そうしない人たちをあしざまに言ったり、牽制したり、どうかすると排斥しようとしたり、そうした事態になっている様子も現実のピアノの場まわりではどうもあるよう。

 

 そうした、誰でもが音楽できる場や機会があること、そうしたものを設けることは、社会としてはだいじなこと、有意義なことだと私は思う。どうかすると、ひとの表現を自他ともに抑え込みがちなこの日本の社会では、むしろ必要だとさえ思う。ひとが表現する可能性を保障するために。ピアノに限らずいろんな公開楽器が、音楽に限らず公開の表現の場が、社会のいろんな所に可能な範囲ででも設けられるようになるといいと思う。そのことは今後繰り返し言っていきたいと思っている。

 ただ、個人個人が自分の人生で自分の音楽をする、やっていくということを中心に据えて考えたときには、そうした場や機会に頼ってだけで音楽をやっていくよりは、自分でどんなに小さくても安物でも楽器を持ち、その楽器でできるだけの音楽をする、そういう音楽ができるようになることが、よいのではないかという気がする。

 そのほうが、自分の音楽ができるのではないか。少なくとも、自分の音楽ができる可能性を持つことができるのではないか。それはつまり、自分の音を持つ、自分で持つ、ということでもあるかと思う。

 

 自分がいま小物楽器に入れ込んでいるのは、自分自身が好きだから、それで自分の音楽ができるから、ということもありながら、そうした小さな楽器ならさまざまな境遇の人がなんとか自分で持てる、自分で音楽ができる、自分が音楽する可能性を文字どおり持つことができる、と思ったからというのがある。

 そして、どんな楽器にも、口笛にも草笛にも、声にも、自分の音が宿るようであったら。そんな自分の「音」を持っていたら。そうしたらそこからいつでもどこでも、そのときその場の状況判断はするとしても、時を越えていつまでも、自分の音楽が生まれ出てくるのでは。立ち枯れるそのときまでは。

 

 このひとりが音楽をする、ということの源は、そういうところにあるかもしれないとも思う。また別なところにもあるかもしれないけれども。

 

 

§

 

 自分はこどもの頃からいわゆる標準語と敬語で話していたらしく、親や先生から心配されていたらしい。テレビの見過ぎだったのだろう。

 でもいま自分がこどもたちと話すときは、いわゆる方言が無自覚にぽんと出てくる。方言が自分の言語なのか、それとも標準語のほうがそうなのか、ちょっとわからない。

 

 ただ、いわゆるアイデンティティという意味合いは自分はどちらにもないなと思う。こどもの頃は方言で話すコミュニティからはいじめられていたし、標準語を話すコミュニティは身近にはあまりなかったし、あってもけっきょく属しなかったのだなと、いま振り返って思う。

 

 自分の音、という話と通じるのかもしれないと思ってこの話を書いたのだけれど、自分の言語、というものが何らかのコミュニティ言語である必要はないのかもしれないとも思う。何らかのコミュニティ言語をもとにして自分の言語が成り立っているとしても、そのコミュニティに回収される必要や回収を求める必要はないだろうなと。そしてきっと回収しきれない。

 音楽でもそうだろう。自分の音楽が何かの特定の音楽文化、いろんな音楽文化のブレンドということも多いだろうが、そういうものをもとにして成り立っているとして、そういう音楽文化のどれかに「所属している」わけでは必ずしもなく、帰依しないといけないわけでもない。現代の日本の(そしていわゆる「西側」の多くの)社会にあっては。

 そして現実にいま誰かがやっている音楽、しようとしている音楽を、すべて何か特定の音楽文化のせいにしてしまうことも無理だろうし、音楽文化のほうから(たとえば音楽文化に所属していると自認する、忠誠を誓っている人々のほうから)あなたの音楽は我々の文化の産物だ、我々の文化に従わなければならない、と言うのも無理だろう。

 

 現実として、人ひとりのその人のする音楽は、特定の音楽文化の「中」にあるというよりはよほど、「外」にあるのだと思う。その文化に由来するかもしれず、いまも「外」から接しているかもしれないけれども。そしてたぶん言語も、そうなのだろう。

 そのような音楽をひとりの人として営んでいる。言語を営んでいる。それは、文化のほうの持ち物や所管なのではなく、自分が身につけた、自分のものにした、自分の音楽、自分の言語なのだということだと思う。

 

 自分の音を持つ。その音は何かの音楽文化に由来するかもしれないけれど、自分の音。発するかどうか、どう発するかを自分で決めることができる音。少なくとも、可能性として。

 だからその音は、既存の音楽文化、音楽のコミュニティ(なるものがあったとして)を離れて、独自でありうる。もちろん既存の文化の規範や基準に合わせようと努力することもできる。その人の意思で。既存の文化に引きずられているかもしれないが、それを発するかどうか、どう発するかは、やっぱりその人が決めることができる。

 そういう音が、鳴っている。聞こえている。そう考えると、この世の中でさまざま聞こえる誰かの音楽、その人の音が、文化どうこうの前にそうあるその音として音楽として聞こえてくる、聴くことができる、そんな可能性が開けてくるのでは。

 やっぱり、そんな音がどこかでしている、そんな世の中であるのがいい。方言でも標準語でもない、あるかもしれないけれども分けられない、割り当てられない、その人の音が。

 

 

§§

 

 自分には自分の音があるのだろうか。失くしてしまったのではないか。壊れてしまった、壊してしまったのでは。そんなふうにも思いながらこの話を書いた。

 いま自分は、どんな楽器でも、ゆっくりと静かに、音をぽつぽつと鳴らしていくほうが充実感がある。そういうときの音は、曲でなくてもいい。1音1音、1ストローク1ストローク

 そしてそういう音も、これは自分の音かと自分で考えると、どこか浮わついていて、自分から発したもの、かけがえなく発したというものではなく、そのときその場でなんとなく発した、それだけのものだという気がしてくる。

 それだけのもの。それ以上でもないけれど、それ以下でもない。そういうことなのだろう。それだけであるということはわるいことではなさそうだとも思う。

 そんなふうに音を鳴らす日々を送る。当面、それしかなさそうだし、それならそういう日々を送りたい。自分の音は自分にとって近くて遠いのかもしれない。

 

 

 

自分律の音楽、音楽の自若、そして自由律の音楽

★ とても長い記事です 少しずつ読んでいただけたらと思います 

 

 以前このブログに、「自分律の音楽」という記事を書いた。日付を見るともう5年近く前になるようだ。

https://draume.hatenadiary.jp/entry/2019/04/05/005215

 

 内容をはしょって書くと、一般的なドレミファソラシドという音階のそれぞれの音の高さや音どうしの間の高さの差は、平均律とか純正律とかの規定の「音律」でもって決まっていて、専門家はふつうその規定に合わせて音楽をするのだけれど、一般の人が専門的なトレーニングなしで日ごろ歌ったり奏でたりしているときには、自分なりの音律で、自分なりのドレミファで音楽をしているのでは、という話。

 

 その記事を書いた後も考えを進めている。書いたことをもっと整理して仕分けしたほうがいいと思うようになったり、別な言葉で考えるようになったりしている。その現在地点と言うほど現在の考えがはっきりしているわけでもないけれど、それでも最新の考えを書かないとと思いながら、時間が経ってしまっている。

 それで、以前の記事を振り返りながら、その先の話、いまこう考えているという話を書こうと思う。

 

 自若、という言葉を使う。また、自由律という言葉をあらためて、特別な意味で使おうと思っている。

 

 

§ 自分律

 

 いまの自分が考えている仕方で、「自分律」の話を少し踏み込んで書いてみる。

 いまこの社会(日本の)でいちばんふつうな音楽は、ドレミファソラシド(およびその間の音)といったような西洋(西欧)音楽文化の「音階」を使った音楽だと思う。このドレミファ音階の音それぞれの音の高さ(音高)や音どうしの高さの間隔(音程)は、いくつかの方式で定まっている。平均律だったり純正律(純正調)だったり。そういう、音階の音の高さや音程を定める原理は、それで定まった音高のセットも含めて、「音律」と呼ばれている。

 いまのこの社会で、音楽をしたい人が音楽のトレーニングを受けるとき(日本の社会にかぎらず西洋文化圏でもそうだろうけれど)、ほとんどの場合は所定の音律に合わせて音を取るトレーニングをすると思う。よく言う「音程を取る」のはその1つ。音程が「取れていない」ことを問題視したり、音程が「取れない」ことを未熟だと考えたりして、取れるようにしよう、なろうとする。「音が外れる」というのも同様に問題視され、トレーニングでなんとかしようとする。

 でも、音楽のそうしたトレーニングを特別に受けていない一般の市井の人たちも、ドレミファソラシドで成り立っているポップスや演歌を、現に歌っている。歌うことができる。音程が取れているとかいないとか気にしないで歌うことができる。そうやって歌っているとき、その人たちはたぶん、だいたいのところで音の高さを把握して「音程を取って」歌っているだろう。

 専門的なトレーニングを積んでいないなら、ドレミファの音高や音程を規定どおりに「正確に」出すわけではなく、それらの「正確な」音高や音程がどういうものかもよくは知らないで、自分なりのドレミファの理解とその音の出し方、言ってしまえば自分なりの音律で、音を出して歌っているかもしれない。そのようなときの、その自分なりのドレミファの理解、自分なりの音律を、「自分律」と呼んでみたい。平均律でも純正律でもなく自分律で、歌を歌っているのだと考えてみたい。

 そう考えるとしたら、そうした人の歌を平均律とか純正律とかの既存の音律で定まっている音高や音程と合っているか外れているかという受け取り方ではなく、そして外れていたら音程が取れていないとか「音痴」だとかと言ってその歌を批判したり切り捨てたり矯正しようとしたりする接し方でなく、その人なりの音律で歌っているのだと思ってその歌を受け取ることもできるのでは。批判したり切り捨てたり直したりする対象でなく、それとして、そのような歌として受け止めて聴くということだってできるのでは。音楽のそういう受け止め方があるのでは。

 

 以前の記事でもおおむね、こんなことを書いたのだった。

 

 その記事の中に、言葉として「自由律」というのも考えたけれど今後使い分けをしたくて「自分律」と呼ぶことにした、という話を少し書いた。でもこの記事を載せた当時はまだ、使い分けをするほどには事柄の整理がついていなかった。

 その記事を載せてまもなく、「自若」(じじゃく)という言葉に思い当たって、この言葉はいいかも、と思うようになった。泰然自若の「自若」。それで、自分律という言葉や考え方ともども整理し直してそれについて書きたいなと、ずっと思ってきた。そのまま5年経ってしまったことになる。

 

 それで、整理できていなかった事柄を取り上げて整理しながら考えを進めて、以下、少し書いてみたい。

 

 

§ その人には「自分律」があるのか、それともないのか

 

 以前の自分律記事では次のようなことを書いていた。引用する。

 

***

おおかたの人は、だいたいのところで音階の音を取り、音程を取り、歌っているのでは。そして「多くの場合」、そうやってだいたいのところで諸々取りながら「歌う」ことに特段の不都合がないだろうと思う。多くの人で声を合わせて歌うときでも。

そして、その「だいたいのところ」というのも、社会文化的に固まった音律をしっかり参照した上での「だいたい」でもなく、たぶん、その人の心にその人なりの「ドレミファソラシド」があって、それに従って多くの人は歌っているのでは。そういう、その人なりの「ドレミファ…」なるもの。

 

***

 

 これについて、最近私は、その人なりの「ドレミファソラシド」がなくても人は歌を歌えるだろうと思うようになった。というか、ドレミファソラシドとは何か、けっこう多くの人がわからないまま、現に歌を歌っているのではないだろうか。

 いま出回っているポップスなどの歌の節回しはほとんどがドレミファソラシド(と、その間の音)で作られているわけだけれど、それを真似して歌うときに、ドレミファソラシドの知識や音の高さの記憶が必要なわけではないと思う。節回しの感じ、ここがこうなって次がこうなってという、音の高低の波というか抑揚を捉えてそれをなぞるように歌えば、それなりに歌える。ドレミファを知らないこどもの頃は人はそんなふうに歌を歌っていたはずで、そのようにして生涯ずっと歌っている人もけっこう多いのでは。

 むしろ、ドレミファソラシドのような音の高さの体系、仕組みを知ってそれに合わせて歌を分析して理解して歌っている人のほうが、少ないのでは。ドレミファソラシドという言葉は知っていても、それが自分が聴いたり歌ったりしている歌、音楽の、はたして何なのかをわかって歌っている人は、実はけっこう少ないのでは。

 そうすると、以前の私の自分律記事に書いていた「その人なりのドレミファソラシド」など持たないまま、自分なりに歌っている人も現にけっこういるのでは。たとえば歌手の人が歌う歌を聴いて覚えていて、それを真似して歌う。そのときには、ドレミファソラシドを意識して歌ってはいないかもしれない。節回しの抑揚だけを覚えてなぞって真似して。多少節回しを変えたりもして。人によってはすべての歌をそのように聞き覚えで、ドレミファで考えることもなければ無意識に音をドレミファのどれかに整理するようなこともなく、歌っているのではないだろうか。

 そうした人たちにさっきの、以前の記事から引用した話は、当てはまらないように思う。その人なりのドレミファソラシドがあってそれに合わせて歌っているわけではなく、別の仕方で歌っているのだから。

 

 

§ 聴く側が受け取ったものは「自分律」か、「自分律」と呼んでよいのか

 

 なので、やはり以前の自分律記事に書いた次のような話も、仕分けして考えないといけない。

 

***

視座を変えて、歌っている人の歌を聴くときのことを考える。その歌が社会文化的に固まっている(音階・)音律に合っている/ずれているという聴き方もあろうけれども、その人の(音階・)音律で歌っているという聴き方もできるだろうと思う。そのとき、その歌に聞こえている音律、その歌でその人が実現している音律。それを「その人の」音律として聴くということができるはずだ。

***

 

 以前の記事では私はこの、聴く側から聴いてそこに実現している音律をその人の音律として聴く、その聞こえた音律もその人の「自分律」だというふうに考えていた、というか、自分律という考えで括っていた。

 でも、その人が自分なりのドレミファソラシドを持っていないときに、それを聴く側で「その人の音律」だと呼べるものなのか。それには疑問がある。音律というものがあるのだとこちら側で思ってその考えに合わせて解釈しようとしているだけの、架空の音律でしかないのではないか。

 これについては、実際に測定器を使って調べてみたらある程度一定した音高、「音律」が検出できる場合はあるかと思う。それを「その人の音律」と呼ぶことはできなくはない、おかしくはないのかもしれない。ただ、それをその人の「自分律」と呼ぶのにはやはり疑問が残る。その人の「自分の」音律、なのだろうか。そして、そのようにその人本人が音律というものを「持っていない」ときに、聴く側のほうで音律がはっきりと感じ取れる、明確に検出される、という事態はそんなにあることだろうかという疑問もある。

 

 

§ あらためて、自分律

 

 いっぽうで、その人なりにドレミファソラシドをつかんでいて記憶していて、それに合わせて歌おうとしている人もたぶんたくさんいるだろう。専門的なトレーニングを受ければ、平均律純正律の音を記憶してそれで音が取れるようになる(かもしれない)わけだが、それ以前に、そこまでになるより前に、その人なりにドレミファソラシドを捉えている、そういうことはやっぱりあるだろう。そういうその人なりのドレミファの捉え方は、自分律という言葉がぴったりするように思う。

 

 そして、そのような自分律で歌っている人も、平均律純正律で歌っている人も、その音律ドンピシャで歌えているわけではたぶんなく、そこからのずれがあるものだろう。そもそもドンピシャに合っていると言うとしてもそれも程度のある話で、現実には「合っている」と言っても少々の誤差、ずれはあるだろう。そして、技術上の問題やたまたまの理由で、所定の音律に当てられなかった音も、あちこちで出しているはずだ。

 そのようなときに、それを聴いている側がその聞こえた音を「自分律」だと呼ぶのが正当なことなのか。それも疑問に思う。特に、その人なりの音律、まさに自分律をその人が持っているときに、そこから外れてしまった音を、聴いた側がそれは自分律だと聴き取るのは、捉え損ないを起こしている気がする。

 そういう意味で、聴く側がそこに実現しているように聴き取るものについては、別の呼び名を当てたほうがいいように思える。

 

 

§ 自若律

 

 上に書いた論点は、特に最初のものは音楽教育だったり音楽文化だったりについて考えるときにも重要な論点になると思うけれど、ここではこれ以上は深めないで、自分律という言葉で考えていたその考え方の整理をしたい。

 

 その人自身が捉えている音律、ドレミファソラシドであればドレミファソラシドを捉えているその仕方やあり方とその音像というのか、自分律と言うときにはそういったものを指して呼ぶのが、言葉の上でも概念としても適切だろうというふうに思う。その上で、その人の音楽において(ここまでは歌で考えてきたけれど歌に限らずにその人のさまざま奏でる音楽において)現にそのようになっている音律のことは、自分律というより、「自若律」と呼びたい気がする。

 泰然自若。何事にも動じず、そのように、あるがままにある、そういう状態。その言葉の「自若」とは、それがおのずとそのようであるそのこと、なのらしい*1

 その人が平均律で歌おうとしたのであれ、自分律で歌おうとしたのであれ、特に何かの音律に従ってではなくてたとえば歌手の歌の真似をして歌ったのであれ、それがその人にとって「うまく」音が取れたかどうかに関わらず、あるいは平均律などの既存の音律に合っているかそこから外れているかに関わらず、結果として歌声は何らかの音になり、何らかの音の高さや音程を取る。その、現にそのようになっている音律のことは、自分律と呼ぶよりも「自若律」と呼ぶのがよさそうに思う。

 

 

§ 音楽の自若

 

 ただ、音律に関して、現にそのようになっていると言えるほどはっきりとした音律が、たとえば聴き手に感じ取れるか、検出されるか、というのは、さっき書いたようにかなり疑わしい気がする。音高や音程はあまり定まらず、ただそのときそのときに何らかのかたちは取っている、そういうような聞こえ方をすることが多いのではないかと想像する。これは想像でしかないけれど。

 そういうときに、たとえば音律とか、音階、音高、音程といった、いわゆる西洋音楽文化の中で正統的な伝統的な音楽理論の概念とは別な何かの仕方で、そうした音楽を成り立たせている原理みたいなものを析出できる可能性もあるかもしれない。ただそうしたことを考える前に、私は、その音楽がそのようにある、その状態をそれとして捉える捉え方が、まずあっていいだろうと思う。

 

 出典をきちんと出せないのだけれど、だいぶ前にインターネットのどこかで見かけた話で、音楽ではステージの上で起きたことすべてが正解だと先生から言われた、という話をときどき思い出す。演奏する本人がこうしようと思ってもそうならなかったり、何か本人の外にある音楽文化的な基準や規範に合わなかったり、そういうことが現実の演奏では起きるのだけれど、その起きたことすべて、鳴った音のすべて、聞こえている音楽のすべてが、正解だという話なのだと思う。

 それはつまり、そのようになった(鳴った、成った)音楽がそれとしてあることを、肯定している話なのだろう。そのそうなってそうある音楽を受けてどう考えるか、今後の演奏でどうしていくかはともかく、このときのこの場の音楽としてはこうなのだと。

 それは、音律に限らず、たとえばテンポやリズムでもそういうことが言えるだろう。リズムが「おかしくなってしまった」演奏も、それはそれとしてそうなっている音楽なのだと。ピアノなどの鍵盤楽器だと音を外すときは音律がどうこうどころか半音とか全音とかの単位で外すわけで、それについてもやはりそうだろう。そうしたことすべて、それがそのようになってそのようである、自若なのだと思うことができると思う。その自若が、聞こえている、聞こえてくる、そういうものだと。ある意味、音楽とはそういうもの、そうあるものだと。

 その音楽のそのようにあること。音律のことに限らず、音楽がそのようにあるそのことを「自若」という言葉で言えるだろうと思う。自若の音律、自若のリズム、自若の何々と言っていく前に、自若な音楽。

 

 ただ、いろいろな音楽がある中で特別にそういう自若な音楽がある、というふうに考えるのは、筋が違うように思う。たとえば既存の音楽理論にはなんとも合わない、なんとも泰然自若とした音楽というものはあるとして、でもどんな音楽も、既存の音楽理論や音楽文化に立脚しようと努力してなされた音楽でも、そうした文化的な基準や規範と合わない、外れた面があるはずで、どうあれそのときのその場の音楽はそのようになっている。

 であれば、自若な音楽があると言うよりも、音楽のそうした自若性を言うほうが、音楽のそのようである事態をよりよく言い当てることができるだろう。そしてそうすることが当面だいじだろうというふうに思う。自若の音楽と言うより、音楽の自若。そこに新たに、あらためて、着目するのがいいだろうと。

 

 

§ 音楽の自若を考えることの意義

 

 というのは、そもそもこうした自分律とか自若とかの話をしているのは、既存の音楽理論や音楽文化の基準や規範から「外れている」音楽に対する風当たりが、あまりに強すぎるのではという疑念があってというのが大きいので。音楽を専門的にやっている人たち、やろうとしている人たちの間でそうした音が取れていないとか外れているとかを問題視するのはそれはそれとして、そうした人たちが世間で音楽をやっている市井の人たちとその音楽に、その風を当てていることがままあるように思う。それだけでなく世間の人たちが同じ世間で音楽をやっている人たち、やろうとしている人たちに当てる風も、なかなかひどいものがある。むしろそういう、世間で吹く風のほうが冷たいことも多そうだ。

 そのような中で、いやその音楽はそのようになっているのだ、音が合っているとか外れているとかでなくてその音楽を聴いて受け取るという道があるのだ、という話がもっと出回っていったら、そしてそう考える人がもっと増えていったら、音楽をすることも聴くことももっと幸福なことになるのではと、私は思う。

 

 いろんな場でたびたび書くのだけれど、世の中には自分は音痴だから、音楽の才能がないから、と思ったり言ったり他人から言われたりして、音楽をするのをやめた人がたくさんいるようだ。音痴とか音楽の技量とかいった事柄は特定の音楽文化や音楽理論の中で問題になる事柄であって、違う音楽文化や音楽理論の中では問題ではないかもしれず、それ以前に、人はそうした特定の音楽文化に所属したり特定の音楽理論を習得して技量に熟達したりしなくても、音楽することができる。

 音楽することはできるのだ。事実として。できるはずなのに、やめさせられている。やめざるを得ないようにまで思わされている。社会的に。社会の中で。そういう見立てを私はしている。

 そのような社会的状況が世間で繰り広げられ、たくさんの人が自分は音痴だから、才能がないからと、音楽することをやめている、やめさせられているのは、その人その人からこの社会が、世間の人々が、表現を失わせている、奪っていると言っても言い過ぎでない、そういう事態なのだと思う。

 これは、表現することを知っていて自身やっている私からしたら、理不尽だ。特定の音楽文化、特定の音楽理論の「中」でしか通用しないはずの規範を、そこに自ら所属したわけでも忠誠を誓ったわけでもないただの人たちに強いて、その人たちの自発的な表現を止めている。

 少し前にこのブログで、ストリートピアノの場でさまざまな方々がある意味気ままに弾く「独特な」音楽のことを書いた。そうした音楽は、特定の音楽文化に慣れ親しんでそれを規範だと信じている人にとってはおかしな音楽に思えるかもしれない。でもそうした音楽を聴いていて、そうした音楽にもそうなった理由がありそうだったり、聴きごたえがあったり、少なくとも何かの聴き甲斐があると私は感じる。そのように実現しているその音楽を、それに沿って聴けば、それなりの何かがそこにはあるとわかる。

 音楽の自若、ということを考えに入れると、そこにある音楽のそういう受け取り方ができるようになるのではと思う。おかしい、音が外れている、そもそも音楽になっていない、そんなふうに思ってその音楽を拒絶したり、それが聞こえてくることに苦しんだり、そうしたことがこの社会ではたくさん起きているようなのだけれど、それは特定の音楽文化や音楽理論に即して音楽を受け取ろうとするからそうなるのであって、音楽の自若のほうを受け止める姿勢があれば、そこは変わってくるのでは。苦痛ではなく、楽しさ、おもしろさ、そしてそれ自体の表している何かを、受け取ることができるようになるのでは。

 そのほうが、表現としての音楽、それをする人々にとって、そしてそうした音楽と隣り合う可能性があり、自身もまた何かの表現をしながら生きている、表現する可能性を持ちながら生きている、きっといつか表現をする、この社会のさまざまな人々にとって、しあわせなことではないのかと思う。

 だから事は音楽に限った話でもない。それのそのありようを受け止めることが、自分を含めたさまざまなありようの人々とその営みが社会の中でそのようにあり続けられる可能性を開き、担保していく、そのもとになるはずだと思う。

 

 ついでに書くと、世間の風のほうが冷たそうだという話は、もし実際にそうであるなら、世間の人たちがほかの人のやっている音楽を何らかの仕方でジャッジしていることを意味すると思う。むしろ世間の人たちこそ平気で、ほかの人の歌を音痴だと言ってけなしているのではという気もする。

 そのことは、ここまで書いた自分律などの話がかえってよく当てはまる事態なのかもしれない。ジャッジするその人その人は、何らかの基準を自分で持っているのだろうから。しかも、もし専門的なトレーニングを自分が受けたこともないのにほかの人の歌を音痴だと言えるのなら、その言う人はその人なりのドレミファを持っているか、あるいはその歌を歌う歌手の人の歌声を覚えていて単にそれによく合っているか外れているかのジャッジをしているのか、たぶんどちらかだろう。

 であれば、そうしたジャッジも、ジャッジした歌声も、それぞれにその人自身の自分律だったり、自分が記憶した基準の歌声だったり、そうしたそれぞれの基準でやっていることだということになる。その間に、ことさらにどちらかが正当だと言える理由があるだろうか。少なくともジャッジする側にことさらに正当性があるとは、この理屈からは言えないように思う。

 それぞれの人が、それぞれの音楽体験を通じて、その人なりの音律、音感と言ったほうが通じやすそうな気もするが、そういうものを育てて培って持っているだろう。そのそれぞれに、それぞれなりのそうなった経緯と現在がある。そう考えれば、自分の「音感」には合わないものも、そのようなものとして受け止める、受け入れるまではせずとも受け止める、そういうことはできるのでは。自分律、自若といった考え方はそういう可能性を導くだろうとも思う。

 

 

§ 余談として 自由律の音楽

 

 これが自分のいまの、自分律、そして音楽の自若という考えの現在地かと思う。音律は自分で自分なりのものを持ちうる。現に持っている人もいるだろう。そしてどういう音律を持っていようといまいと、そのときその場で音楽はそのなったようになる。そのようにある。

 このように考えると、このことを前提として、人は自分の音律を自分で意識して持つ、生み出すこともできそうだと思えてきた。そして、これが私の音律だと言い、それによって自分の音楽をしようとすることも。

 ピアノなど音高をプリセットしてある楽器ではちょっと難しいだろうけれど、声であったり、ヴァイオリンなどのフレットのない弦楽器だったり、たいていの笛だったりでは、奏者がソロ演奏の際に音の高さを自分のさじ加減で少し変えることがよくあると聞いている。楽器そのままでは平均律などの規定の音律が取りづらく、それに合わせるための微調整をするような場合もあるらしいけれど、そうした所定の音律からずらして表情を作るとか、指運びができるようにやむをえずとか、そういう奏者の裁量で音高をずらすことはままあると。

 その延長として、音律自体を音楽文化が定めている音律といくらか変えて、その人なりの音楽表現を作る、実行する実現するということはありうるし、できることだと思う。そもそも西洋音楽文化の中でも平均律純正律を使い分けたり、楽曲の生まれた時代を考慮した調律法を選択採用したりもするわけで、この現代に個人の表現活動として音楽を営む場合には、自分で音律を選ぶ、培う、作るというのも営みの一環としてありうることだろう。

 そのように自分が選んだ自分なりの音律で音楽をすることを、「自由律」の音楽と呼ぶことはできそうだし、言葉として合っていそうだと思う。自由という言葉の意味として。

 

 音楽は自由だ、と、しばしば言われる。現実、言われるほどに自由だろうかという気もしながら、でも自由だと思う。少なくとも音楽をする自由があるところでは、自由にできるはず。そうした自由の前で、ぽつぽつとでもこつこつとでも、自分の分の音楽の自由を、営みたいものだと思う。

 もちろん、声の、楽器の、場所の、さまざまな条件がある。その中で、その上で、そのもとで、自分の自由を着々と行使しながら。自分がそうしていたなら、やはりそのようにその人の自由を行使しながら音楽をしている人たちのそれぞれの音楽も、それとして隣り合うひとときが持てそうな、保てそうな、そんな気がする。気がするだけに終わるのか、現実そうやっていけるようになるのか。いくらかなりともそうやっていけたらと思う。

 

 音楽の自若に接しながら、それをどうにかこうにかでも受け止めながら、そこからその人の音楽がかすかにでも聞こえてきたらいいなと思う*2

 

 

 

 

*1:インターネットの辞書で調べると、泰然自若の自若とは動じず落ち着いていること、という説明がたくさんあり、実際その意味で言われているのだろうとも思うけれど、字義としては、自=みずからの、若=ごとし、であると考えられる。これが本来の「自若」の意味で、動じないというのは何事があっても「みずからのごとし」、変わらないということから来た派生的な意味だろうと考えられる。そのような解説をしているページもある。

*2:この記事を振り返って、自分はその人「ひとりの」音楽を考え、その人ひとりの音楽の肩を持ちたい、擁護したいのだなと、あらためて自覚した。音楽と言うとバンドやユニットやオーケストラやアンサンブルや合唱など、何人もの人たちで一緒にやっていく音楽がたぶんまっさきにイメージされるこの世の中では、またそうしたスタイルでなされる音楽にあっては、音を外す、音程が取れない、といったことが、音楽を損なうものとして捉えられることがふつうになってしまっているのだと思う。そんな世の中で、ひとりが音楽すること、ひとりに発する音楽、そういうものをだいじだと言っていきたい、その足掛かりの1つがこの話なのかとも思う。

道具というより「自体具」としての楽器

 

楽器は音楽をするための道具だとされているけれど、自分がこのごろ小物楽器を鳴らすときは、音楽かどうかはともかく音を鳴らしたくて鳴らしている気がする。それも、音を鳴らすための道具というよりそれと関わることすなわち音を鳴らすこと、という感じで。

そういうときの楽器は、それ自体と関わることが目的で使っている、道具というよりもなんというか「自体具」みたいなものであるように思う。

そういうときの鳴らしている音は音楽なのか、音楽と言えるのかどうかについては、イエスかノーかに切り分ける必要がない気がするけれど、その関わりの様相、様態が、音楽と言うなら音楽である、ということではあるだろうかと思う。

 

ストリートピアノでさまざまな方々の独特な音楽を聴いて、考えたこと

★ とても長い記事です §ごとのまとまりを少しずつ読んでいただければと思います 

 

§ はじめに

 

 「誰でもどうぞ」と置かれているピアノを自分は「パブリックピアノ」と呼ぶようにしているけれど、「ストリートピアノ」と言うほうがやっぱり通用しやすいので、この記事ではそう呼ぶことにする。

 

 ストリートピアノが当地でも数年前からあちこちで設置されるようになって、駅や商業施設などでいろんな方々がピアノを弾くようになった。弾くというか、鳴らしていく感じの方々も多い。でも、「弾く」と「鳴らす」の境い目はあるのだろうか。

 ストリートピアノというと、昨今のストリートピアノ投稿動画の影響で、「うまい」人、腕が立つ人だけが弾くイメージが世間一般には出来ているようだ。SNSではストリートピアノをそういうイメージで捉えているらしき声をたくさん見かける。でもストリートピアノは「誰でもどうぞ」なピアノだから、「うまく」ない人でも気軽に弾けるし、実際にいろんな人が弾いている。うまくない人がとつとつとピアノを弾いているのがいいんだ、ストリートピアノとはそういうものだ、と言う人もときどき見かける。

 それにしても世間の多くの方々のイメージとしては、実際のストリートピアノを実地でごらんになったことがある方でも、「うまい」人が「うまく」弾いていたり、「うまく」はない人がとつとつと弾いていたり、あるいはこどもたちが遊んでピアノを鳴らしていたり、もしくはおとながふざけてピアノを鳴らしていたりする、そのいずれかを思い浮かべることがほとんどなのでは…と思う。つまり、ピアノを「きちんと」練習して音楽を「きちんと」学んでどのくらいかマスターしてピアノを弾いている人か、いまピアノを「きちんと」練習している途中の人や練習を始めたばかりの初学の人、でなければ、こどもさんの遊び弾きや「いたずら」。そのどれかだという感じで捉えているのではないかなと思う。

 

 自分はいまのストリートピアノブームが来る前から地元の公共施設でパブリックピアノを10年ほど弾いて聴いてきて、この数年は当地のあちこちのストリートピアノを聴き弾きして、そこでいろんな方がいろんな演奏をなさるのを聴いた。その中で、ピアノを「きちんと」というか「正式」に習っている、つまり音楽大学など「正統的」なコースでピアノを学んだ先生に師事して長く習っている…というわけではなさそうだけれど、でもピアノをとつとつと弾くというよりは独自の仕方でそれなりに弾いている、そんな感じや様子の方々をときどきお見かけしてきた。

 そうした方々の演奏の中には、たとえば一般的な音楽理論やピアノの演奏法に「通じている」人が聴くと、おかしいと思うのでは…という感じの演奏もある。そういう理論的・技術的な面で音楽にそんなにくわしくない一般の方々でも、ふだん聞き慣れている音楽とは違うな、ちょっと変だなと思う演奏があるかもしれない。でも、そうした方々の演奏をじっくりと聴いていると、その方がその方なりに音楽をしようとしているのが伝わってくる。そしてたしかに音楽になっている気がしてくる。これもたしかに音楽なのだと思えてくる。

 ストリートピアノの場でときどき聴くことができるそうした演奏、そうした音楽のことを、いつか書きたいなとずっと思ってきた。そうした演奏、そうした音楽に各地のピアノの場で出会って、私は、自分の音楽観を見つめ直したり、自分の音楽をやっていく上での励みや支えにしたりしてきた気がする。投稿動画で見られるような「うまい」演奏ばかりがストリートピアノの場にあるのではない。そして「うまい」演奏ばかりが、「正統的」な何かに則った音楽ばかりが音楽なのではない。そのことを、そうした演奏、そうした音楽から、そのつど考えさせられてきた、そして教えられてきた気がする。この記事ではそうした方々の演奏、音楽を振り返って、考えさせられ教えられてきたその一端を書けたらと思う。

 

 そうした方々の演奏や音楽をどういう言葉で言い表したらいいか、だいぶ悩んでしまった。アートの分野だと以前だったらアウトサイダーアートなどの言い方があったし、音楽に関してもそういう言葉が使えなくはないのかもしれない。ただ音楽の分野はたとえばギターの弾き語りやバンドなどを、音楽を特別に「正式」に習ったわけでなくても自発的にするということがとても多く、そういう意味ではアウトサイダー、「正統」の外であることがわりとあたりまえな分野だと思う。

 とはいえ、音楽のそれぞれのジャンルにある程度「正統」だったり「伝統」だったり、あるいは「理論(セオリー)」だったり特定の様式の「アプローチ」だったりが何かあるのはあるだろうし、しかしそうは言ってもそれらのどれかが絶対的に正しいわけでもないし普遍的だというわけでもないだろう。そんな広い意味での「音楽」のあり方、さまざまな音楽が現にこの世界にあってそれらを人がそれぞれに聞いているという状況を考えると、そうした方々の演奏や音楽を何か特別な言葉で言うとしてもせいぜい、独特な演奏、独特な音楽、くらいにしか言えないだろうなという気が私はする。独自、ユニーク、などでもいいかもしれないけれど、あとで書くようにその方「独自」の演奏方法ではない可能性もあるので、独自と呼ぶよりは、さしあたり独特と呼ばせていただこうかと思う。これでもだいぶ失礼な言い方かもしれない。話をする都合上、そこはお許しいただけたらと願っている。

 

 ストリートピアノの場で出会った個々の方々を1人1人あまり追わない、1人1人の演奏のことをあまり細かく取り上げて書かない、そのほうがいいだろうという基本的な考えが自分にはある。プロでない方々はそういうふうに書かれることに慣れてらっしゃらないだろうし、書かれることでピアノの場に来づらくなってしまっては申し訳ない。ただ、今回はそれぞれの方の演奏の様子を書かなければ何も伝わらないので、今回は少し踏み込んで、私が聴いた演奏の様子を細かく書くことにする。

 演奏のよしあしを評価するというつもりはまったくない。というか、そうした音楽に出会えて自分はとてもよかった。そのことはまず先に書いておきたいし、記事を最後まで読んでいただけたら、どうよかったのか読み取っていただけるのではと期待している。記事の最後では、そうした演奏、そうした音楽がストリートピアノの場で聞かれたということについても、ひと考察したいと思う。

 

 

§ 1 続いていく音楽

 

 何年も前。もう日が暮れていたと思う。ある駅のピアノを若い方が弾き始めた。弾き始めたというより、最初は鳴らしているという感じに聞こえた。できあいの曲ではなさそうで、どうも指を適当に動かして音を鳴らしてそれを楽しんでらっしゃるのではないかという気がした。

 こうしたピアノの場では、ピアノに向かってただ鳴らしてみるようなご様子の方をよく見かける。こどもさんもおとなの方も。ドレミファをたどる方もいるけれど、そういうのも無くただ1音1音、1動作1動作、鳴らしてみているご様子のこともある。そして小さなこどもさんでなければある程度鳴らしたところでおやめになることが多いかなと思う。

 しかしそのときのその方は違った。違うのはしばらく聴いていてわかった。1音1音の断片ではなく、メロディーを弾くように一連の動きで(いわゆるレガートのように)音を鳴らしておられる。両手でそうなさるので、バッハなどの対位法音楽のように右手と左手の2つのメロディーがそれぞれに生まれて流れている、そういう感じに聞こえた。その音を聴いているうち、その方はただ音を鳴らしているというより、そのようにいまピアノを「弾いて」おられるのだと感じられてきた。

 そうなると俄然、聴いていたくなった。これはその方の音楽だ、いまここで生まれている音楽だと。その方は弾き続けた。白鍵だけでなくときどき黒鍵も鳴らして、たゆたう音の流れを生み出して止まることがなかった。よく聞く音楽のような抑揚、起承転結、そういったものも特になく、しかしただ単調なのでもなく、その方なりに何か思いながらなのだろうけれど調子をそのときどきで少し変えて、音楽を探りながら作っている、そんなふうに感じた。

 その方は一度お立ち去りになってご家族らしき方々のところへ戻ったと覚えている。そして、列車の時刻がまだなのか、またピアノに戻って来られて、同じように演奏をなさった。そしてわりとふいに、演奏を終えられたのだったと思う。たぶんトータルで30分くらいはお弾きになった。そしてご家族の方々と去って行かれたのだったと記憶している。

 その方の演奏を後から振り返って、ああこういう音楽の仕方があったんだ、と思った。即興演奏と言えば即興演奏。自分も即興演奏は自分なりにやっている。ただ、その方にとってはおそらくピアノを弾くということがふだんの暮らしの中にそもそも無くて、駅でピアノを前にして、ご自身が思っておられる「ピアノを弾く」ことを真似してみた、ピアノを弾くイメージをなぞって手を動かしてみられたのではないか。そんなふうにご自身が思う「ピアノを弾く」をともかくご自身の手でピアノで実行すれば、それは何かにはなる。「でたらめ」ではなくて、その方が思っておられることから生まれた、音の何か。それはつまり音楽にほかならないと、いまの私は思う。というより、この方の演奏を聴いたことが、私がそう思うようになったきっかけだったかと思う。

 

 その方が生み出しておられた音楽は、言うならば無調音楽、ドレミファソラシドのシステム(調性のシステム)で出来ているのではない音楽だった。それに対して、先日私がある駅のピアノの場で聴いた音楽は、無調ではなくドレミファのある調性音楽だったけれど、その方のようにどこまでも続きそうな、そして実際その方よりもさらに長く続いた音楽だった。今度はそのときに聴いた演奏のことを書きたい。

 そのときの方の演奏を最初聴いていて、何か私が知らない曲をお弾きになっているのだろうと思った。コードがあって、一般的な曲で使われるコード進行パターンが使われていて、メロディーも一般的な音楽として自然な感じで、ニ短調の曲に聞こえた。ときどきト短調変ホ長調に転調する感じ。そして技巧的な箇所もあり、ピアノを弾き慣れている方のようだった。ただ、長く弾いてらっしゃるのに曲の大きな起承転結がはっきりしない。同じメロディーやコード進行の繰り返しがなく、構造感がしない。手癖のように同じような音型がときどき出現するけれど、曲としてのかたちが無い。そんなように感じられてきた。これは即興演奏だと思った。即興で、いまメロディーを手元で編みながら弾いてらっしゃるのだと。

 それが確信できた時点で、お弾きになり始めてから10分くらいは経っていたかと思う。これはどんなふうにして終わるのだろう。最後まで聴いてみたくなった。もともといろんな方のいろんな演奏を聴きたくてそれぞれのピアノの場を訪ねてしばらくそこに居るようにしているので、この音楽を聴き届けて次の方を待つつもりでいた。ところがその方の演奏がどこまでも続く。ときどき調子が穏やかになったりして、何らかの構造というか音楽の中の変化やまとまりを意識されているようにも思ったけれど、どこで終わるかというのは聴いていて予見できない感じだった。

 駅の売店で買い物をしたりトイレに行ったりして戻ってきても、その方は弾き続けていた。そして、その方もまたふいに、演奏を終わった。弾き初めから1時間20分くらい経っていた。そのあいだノンストップで弾き続けられたのだろう。何事も無かったかのように荷物を背負ってその方はお立ち去りになっていった。その後ろ姿は駅を行き交うほかの人たちと何も変わらなかった。

 

 

§ 2 技のかずかず

 

 ストリートピアノの場でときどき、左手の伴奏でCのコード(C・E・Gの音、ドレミで言うとド・ミ・ソ)をずっと鳴らしながら何かの曲のメロディーを弾くという仕方の演奏を聞く。Cのコードが分散和音、たとえばドソミソドソミソの繰り返しのような、そういう伴奏のこともある。なにかそういう、とにかくなんでもCのコードを当ててピアノを弾くという方法が、むかしからどこかで言われていたのかと思うくらい、いろんなときにそうした演奏を聞く。

 学校の先生が教室のオルガンでこどもたちにそう教えていたり、その仕方で伴奏を覚えたこどもさんがおとなになって自分のこどもさんにそう教えたり、そんなことがあちこちであったのではないか。その曲だけをそういう簡略な仕方の伴奏で教わったのかもしれないし、あるいはそういうふうにCのコードを当てたらたいていの曲はだいじょうぶだとそのときに教わったかのかも。そうやって伴奏の当て方を覚えた方がそれを思い出して、いまピアノの場でそう演奏なさっているのではないか。あるいはその教わったとき以来、ずっとその方の暮らしの中でそうやって弾き続けてこられたのか。

 そんなことを思うようになった1つのきっかけが、ストリートピアノの場で聴いた、ある演奏だった。

 

 もうだいぶ前のことになる。週末だったと思うけれどあるピアノの場でたくさんの方々が、次に弾く人の登場を待っていた。それまでお弾きになっていた方々が腕の立つ方々で、たぶん次はどんな人がどんな演奏をするのかと期待して待っている方が多かっただろう。

 そこにお一人の方が出て来られた。見た目の印象を書くのは気が退けるけれど、朴訥な感じの方だった。その方がピアノに向かい、シンプルな感じの音楽を始めた。左手でC(ド・ミ・ソ)、G(ソ・シ・レ)、F(ファ・ラ・ド)ともう1つくらいのコードをかわるがわる鳴らして、右手でドレミファソと下のシあたりまでを使ってメロディーを紡いで。この方も即興演奏のようだった。やはり曲としての構造は無さそうだったが、情熱的で、大音量ではないけれど力強い演奏だった。一心にピアノに向かってらっしゃる感じ。聴いていて、そしてその方の一心なご様子を見ていて、おそらくこの方はどなたかからむかし、こういうふうにしたら音楽ができるよと教わって、いまそれをここでやってらっしゃるのだろうと、ふいに思った。そうやってピアノを弾くことをずっとどこかで続けておられたのか、むかしのことを思い出してひさしぶりに手を動かしておられるのか、なんにしてもそんなふうに音楽を生み出しておられたのだろう。

 その方が演奏を終えて、ピアノの周りにいたたくさんの方々が拍手を送った。その方はちょっと驚いたようだったが、弾き終えたという気分をおからだで出しながら、さっとピアノを後に歩き去っていった。

 

 左手でコードで伴奏をつける場合、いろいろなコードをどういう順番で使うか(進行)にはある種の定型がある。こういうふうに進行してフレーズを形作る、曲の節目を作る、盛り上げる、終える、といった進行パターンがある程度ある。むかしの歌謡曲やポップスなどはだいたい、そういう定型の進行をある程度守った伴奏で演奏されている。最近のポップスでも、定型のパターンがむかしとは違ったりするけれど、そういうものがあるのはあるようだ。

 ストリートピアノの場ではそうした定型の進行とは違う感じの、だいぶ独自な感じで、というよりもそのときどきの気分しだいのような感じで、コードを連ねていくような演奏を聴くことがある。いま書いたC・G・Fのコードでお弾きになった方もそういう感じだった。そうしたコードを使うことはむかしどなたかから教わったのかもしれないが、コードをどう連ねていくかはたぶんそのお弾きになる方ご自身の感性か意思か、気まぐれかもしれないけれども、ご自身で適宜コードを切り替えながら伴奏を当てておられるのだろう。その切り替えにその方の音楽性というか、その方なりの音楽のロジックみたいなものを感じることもある。

 あるピアノの場でよくお弾きになっているある方は、いつも演奏するレパートリーが決まっていて、伴奏も即興ではなく一定の型がある感じだけれど、でも一般的な伴奏ではないなと感じていた。あるとき、どういう伴奏なのだろうと少し分析するつもりでその方の演奏を聴いていて、ふと、メロディーが休符で休んでいるときにその直前のメロディー音を左手のベースで鳴らすという「技」を使ってらっしゃることに気がついた。メロディーが続いている箇所ではおそらくむかし覚えた伴奏をその方なりのご記憶で弾いておられるのだろう。そのご記憶が少し違っていたりもあるだろう。ただ、メロディーが途切れているときにどうするかをお忘れになったか、覚えている方法がしっくりこないのか、それをご自身で補ったり改良したりするつもりで、メロディー音をベースにはめるという方法を発明なさったのだろうかと思う。

 なんにしてもその「技」のおかげで、伴奏は途切れずにメロディーを支えて、曲が進む。レパートリーが固定していることも含めて、これがその方が音楽をする仕方なのだろう。

 

 同じようにC・G・Fくらいのコードを適宜切り替えて既製の曲を演奏なさる方で、右手に独特の「技」をお持ちの方がおられた。

 ピアノを習う習い初めの頃に、ドレミファソラシドの連なりを弾くときに親指を進行方向へずらしながら手のポジションを変えていく「技」を習う。これはクラシックにしてもポピュラーにしても使われるピアノ演奏のある意味基本的な技術で、この技術によって弾き手は手の大きさよりも少し離れた位置の音(鍵盤の鍵)を切れ目無く鳴らすことができる。

 しかしその方はこの技術を使わない。かわりに、次のような「技」を使われる。たとえばドレミファソを親指-人差し指-中指-薬指-小指と順当に鳴らした次に続けてその上(右側)のドを鳴らすとき、ソを鳴らした小指を一瞬でジャンプさせて右のドを鳴らす。近くで見させてもらったときに、最初そのジャンプの素早さに自分の認識が追いつかなかった。軽々とその技をこなして、どんなメロディーでも対応なさる。実際その方はさまざまな曲をたくさんお弾きになるのだった。

 いや自分は好きに弾いているだけですから、と、お話しするたびにその方はおっしゃっていた。最近お見かけしなくなった。四点支持の杖をつきながらゆっくりとピアノに向かわれていたお姿を、またお見かけできたら、また演奏を拝聴できたらとずっと思っている。

 

 ご自身のおからだの都合から、独特の技術をお使いになってピアノをお弾きになる方もおられた。

 ある駅で、装具をお使いになっている方がその装具を外してピアノにおつきになった。左手を動かすのに困難がおありのようで、どうもご自身の意思どおりに腕が動かずにひとりでに動いているような様子も見えた。右手でメロディーを一般的なピアノ演奏と同じ感じでスムーズにお弾きになり、左手は高い位置から鍵盤へ振り下ろすようにしてベース音だけを鳴らしていた。左手は振り下ろす前は大きく揺れて、音を取るのがとても難しそうに見えたが、しかしそれだけ振り下ろしているのにベース音はかなり的確に捉えられていた。振り下ろすので音はだいぶ大きいが、しかし鍵盤を叩くような動きには感じられなかった。「叩く」のとは明らかに違うことをなさっているように見えた。

 おそらく、ふだんからそうとうな練習をなさっているのだろう。ピアノを習っていて先生とそういう奏法を工夫して編み出したのか、ご自分でその奏法を編み出したのか、どちらにしてもたいへんな努力の結果だろう。そして、それだけピアノを弾くのがお好きでいらっしゃるのだろう。なんとか弾きたいと。そうして獲得なさった、その方なりの奏法なのだろうと思う。

 ひととき演奏をなさってその方は、外した装具を装着してピアノを後になさった。拍手をしたけれど、その拍手がぴんとこないご様子で、そのまま駅を去って行かれた。

 

 

§ 3 既成概念を揺るがす

 

 ストリートピアノの場でほかの方々の演奏を聴いていると、思いもかけない仕方で、音楽に関する自分の既成概念を自覚させられ、それが揺るがされることがある。

 お友だち同士らしきお二方のお一人がピアノをお弾きになっていた。私も知っている曲を、やや独自感があるコードの当て方でお弾きになっていた。ところが、ある曲の演奏がよくわからなかった。何をお弾きになっているのだろうと注意して聴くと、メロディーはやはり私の知っている曲なのだけれど、コードがわからない。メロディーとコードがぜんぜん合っていないように聞こえる。そういう感じの演奏を何曲か聴いているうち、はっと気がついた。メロディーはニ長調とかホ長調とか、曲それぞれにいろんな調でお弾きになっているのに、コードはずっと、C・G・Fというハ長調の主要コードを使っておられるのだ。そしてどうも、調がメロディーと伴奏とで違いながらもコード進行としてはそれなりに合っているような感じ。

 なぜそのような演奏になるのか理解ができなかった。メロディーがいろんな調で弾かれているということからすると、メロディーは何か楽譜を見てそれで知っておられるのだろうけれど、ひょっとして、調に関係なくコードはC・G・Fでいいと思ってらっしゃるのか。だとしたらちょっと声を掛けて、コードもメロディーの調に合わせないとおかしくなりますよとお話ししようか…と考えた。でもどうお教えできるのか。声を掛けるか迷いながら聴いていたのだけれど、ふと、ああこれもありなのかなという思いがよぎった。見ていてその方が響きがおかしいと思ってらっしゃる様子がない。これでその曲が弾けていると満足してらっしゃるようでさえあった。だとしたら、実際の響きがどうであれ、それをほかの人が聞いてどうであれ、その方にとってはこれで音楽ができている。そういうことなのではないかと思った。

 あらためて考えると、これはどんな曲でも最初から最後までCのコードを当てて弾く方法とそう違いがない。どういうコードを当てるかのいわゆる「正統的」な知識がないまま、でも音楽がしたいというとき、その曲を弾きたいとき、自分が覚えている唯一の仕方でとにかくコードを当て、伴奏をつけて弾く、それでその曲をともかく弾くことができる。であればそれはその人が音楽をすることを可能にするとても有効な、有益な方法だ。そういうふうにも思えてきた。そのくらい、このときの弾いておられる方はふつうな様子で弾いておられた。むしろ、ハ長調としてのコード進行自体は合っているようだったから、さまざまな調のコード進行をぜんぶハ長調のコード進行に直して弾いてらっしゃったということになるわけで、これもまた独特な「技」と言えるかもしれない。

 このときの体験は自分の調性音楽観をだいぶ揺るがした。調性音楽は音階と、それらを和音にしたときの響きの性質で組み立てられる。だから和音(コード)が違えば音楽としても変わってくる。コード進行が「おかしい」と音楽として成り立たない。ハ長調のメロディーにCのコードだけをずっと当てるのはCがハ長調のいちばん要めのコードだからまだわかるけれど、ほかの調のメロディーにハ長調のシステムのコードを当てるのは、そういう音楽をするという意思が特別にあるのでなければ(そういう音楽があるのはある)、おかしなことだ…というのが既成概念としてあると思う。私にかぎらず、クラシックなりポピュラーなりの西洋音楽を学んだ人は一般的にはこの既成概念の中で音楽を聴き、音楽を作っているだろうと思う。でもこのとき私がその方の演奏を聴いて知ったのは、その概念から外れた仕方で、既製の調性音楽の楽曲を弾いて「楽しんでいる」事実があるということだった。

 いや、その方ご自身も、何か変だなと思いながらお弾きになっていたかもしれない。それぞれの調でどうコードを見つけるか、使うか、お教えできるならお教えしたほうがよかったのかもしれない。でもそれはあのとき感じた事実感には反する。あのとき聞こえていた音楽、それをお二人で楽しんでおられるようだった様子、それらがあったことには反する。そういう気がする。その音楽とその様子がむしろ教えてくれたのだと、いまの自分は思う。これも音楽のひとつの仕方なのだと。楽しみ方なのだと。

 

 

§ 4 鳴らすことと弾くことと

 

 こどもさんがピアノを鳴らすとき、一般的なイメージとしてはたぶん、がちゃがちゃ乱暴に鳴らすというようなイメージが思われているのではという気がする。しかし現実のピアノの場で見聞きしていると、こどもさんそれぞれに鳴らし方はだいぶ違う。たしかにがちゃがちゃ乱暴に鳴らすこともあるけれど、最初からがちゃがちゃ鳴らすよりは、音をそっと鳴らしていてある時点から突然にばんと鳴らしたり、ある程度大きくなったこどもさんが明らかにいたずら目的でがんと鳴らすということが多いように思う。むしろ、ピアノに初めて触れるこどもさんは、少なくとも最初はそっと鍵盤を押さえて音を鳴らすことが多いのではないかという所感を自分は持っている。

 小さなこどもさんは鍵盤のうちの自分のからだが届くあたりでともかく手指を動かして音を鳴らしていることが多いように思うが、あまり小さくないこどもさんだと、ドレミがわかるほどの年長さんでなくても、音をこういうふうに鳴らすという意識があってそのように鳴らそうとしている様子、少なくとも鍵盤をこういうふうに押すという意識があるらしき雰囲気を、こちらが感じるときがある。優しく鍵盤を押さえるとか、ある所を鳴らすと次に別の所を鳴らすとか、ある所を鳴らし続けるとか。メロディーらしきものを鳴らそうとするこどもさんもいる。そうしたことは、ピアノを「弾く」意識と言うなら言えると思う。というよりそういう意思で音を鳴らすということとピアノを「弾く」こととの境い目は、無いような気がする。もっと言えば、音楽をすることとの境い目は。

 

 あるピアノの場で出会った方。その方と最初どんなふうに出会ったか覚えていないのだけれど、たしかほかの方がピアノを弾くのをその方が聴いてらっしゃったのだと思う。そのときにその方か私かどちらかから話し掛けて会話になった。たぶんその中で私がその方にピアノを弾くのを勧めたのではなかったか。もしくはその方が、弾いてみたいけど…とおっしゃるのを私が後押ししたのか。

 その方はピアノに向かうと、最初はぽつぽつといくつかの音を鳴らしていたのだったかと思うが、やがて両手の手のひらを開いて鍵盤を広く押さえるようにして、たくさんの音を鳴らし始めた。ピアノの演奏技法にこうした技法があり、クラスター奏法と呼ばれている。音の塊(クラスター)で音楽を作っていくわけだ。クラスター奏法で鳴らされる音はいわゆる「不協和音」の連続になる。多くの方々には聞き慣れない、どこかで聞いてはいてもあまり好んではいない、そういう音かと思う。こどもさんが音をがちゃがちゃ鳴らすのはたいていクラスターになっているけれど、いまの私の話からそのがちゃがちゃなイメージが湧く方も少なくないかもしれない。

 その方はペダルを踏んでクラスターを響かせていた。音量としてはかなり大きかったけれど、ただ、なんというか鍵盤をふんわり押して鳴らしていた。手首のクッションを活かして、がちゃがちゃではなく、あえて柔らかい音を鳴らそうとなさっているようにも見えた。不協和音は不協和音なのだけれどどこか優しい感じが沁み出ていた。それはその方が「ピアノを弾く」とはこういうことだと思っておられてその素直な表現なのか、その方がいま表現したいのがそういう感じの「こと」なのか、何かそういう姿勢や気持ちであのときピアノに向かっておられたのだろうと、後から思った。

 あの方がピアノを鳴らしたのか、ピアノを弾いたのか。その区別はちょっとできそうにない。どちらだろうとあの方はあのとき、音楽をしていた。それはまちがいないことのように思う。それがあのときあの場におられたほかの方々から音楽に思われようと思われなかろうと、不協和音だと思われようとでたらめだと思われようと、あれは音楽だった。その方の優しかったクラスター奏法が、そのことを如実に物語っている。

 であれば、その方にかぎらずほかの人たちの、ただ鳴らしている、でたらめに鳴らしている、そんなふうに思える音も、でたらめというよりは音楽なのではないか。そう思って聴けば、何か、そこから聞こえてくるのではないか。音楽としての何かが。それは、こどもさんでもそうなのではないか。そのこどもさんなりの何か、意思ある取り組みが、おとなになって音楽についてある意味「訳知り」になった私たちにはわかりにくいだけで、でも何かがあるのではないか。

 そう思っていま実際のピアノの場で、こどもさんやおとなの方々が鳴らしている、ただ鳴らしているようでもあるピアノの音を、聴いている。そうするとそれなりに何かが聞き取れるようでもある。その聞き取った何かをあまり確実視したり確定視したりはしないでおいたほうがいいかもしれない。けれど、聴けば何かあるかもしれないとは思い続けていたい。自分はそういうふうに聴いていこうと思っている。

 

 

§ 振り返って

 

(1) それぞれの仕方で音楽をする、音楽になる

 この記事で書かせていただいたさまざまな方々がそれぞれ、ピアノを習ってらっしゃったことがあるか、現在習っておられるか、音楽の勉強をどのくらいなさったことがあるか、どのようになさっているか、そういったことはわからない。ただ、それぞれの方々が弾いておられた様子を振り返ると、初めてあるいはほぼ初めてピアノに触った方、少なくとも過去の一時期にピアノを習っておられたかあるいは独学でピアノを弾いておられた方、いま現在ピアノをどこかで弾き続けてらっしゃる方が、それぞれいらっしゃるだろうなと思う。そしてそれぞれなりの仕方で、ピアノを弾き、音楽をなさっているのだと思う。そこを少し振り返って考えてみる。

 Cのコードだけで伴奏をつける方法のことを上に書いた。そこにも少し書いたけれど、たとえば教育関係の分野で、先生がピアノを弾くときに簡易に伴奏をつける方法もしくは窮余の一策として、あちこちで教えられてきたような事実があるのでは…と私は推察している。それはそうだとしたら全国規模くらいに広まっている方法なのかもしれないけれど、そういう広く教えられた方法ではなくて個人対個人で、たとえば学校の音楽の先生がこういうふうにしたら音楽ができるよ、簡単な音楽が作れるよ、みたいなことをこどもさんに教えて、そのこどもさんがその方法でずっと音楽をし続けているというようなこともあるのでは…と思う。CやGやFのコードを取り替えながら即興演奏をなさっていた方は、そんなふうにどなたかから音楽の仕方、作り方を、教わったのではないかと私は勝手に思っている。それをいまもどこかで実直に実行なさっていて、たまたまそこのピアノの場でそれを実演してくださったのだと。それは私の思い込みかもしれない。でも、ストリートピアノでそんなふうに独特の演奏をなさる方々の中にそういう方がおられる可能性は、あると思う。その可能性があることをその方の演奏から教えてもらったのだと思っている。

 また、むかし習った弾き方を部分的に忘れてしまい、それをご自身で考案した方法で補って演奏を続けてらっしゃるということもあるだろう。ベース音をメロディー音で補っておられた方がそうだったのでは…と私は思う。そしてそういう独自な補完みたいなことは、ひとりでピアノを弾き続けているときっとごくふつうにある。そんなふうにして人それぞれに、自分なりのピアノの弾き方、演奏方法を、作っていく面がきっとあるのだと思う。音楽理論やピアノの一般的な奏法の観点からみて突飛だったりしても、それがその人の培ってきたその人なりのピアノの弾き方、音楽の仕方ということだろう。どんな調のメロディーにもC調のコードを合わせていた方も、その方がたぶんご自身で開発して熟練してきた方法なのだろうし、いつかもっと「正統的」な方法を知ってそれが取って替わる時が来るとしても、いま現在はその方が楽しんで音楽ができる有効な方法でもあるのだろうと思う。

 左手を振り下ろしてベース音を鳴らす方がどのようにその奏法を習得なさったのかも私にはわからないけれど、その方がピアノがなんとかして弾きたくてご自身だけで努力なさってその方法を開発なさったのか、それともどなたかにピアノを習っていてその方法を一緒に開発なさったのか、ではなかろうかと思う。そしてその方法を身につけて、ご自身に合ったピアノの弾き方、音楽の仕方を、実行なさっているのだろう。

 音楽の仕方を直に習うのでなくても、誰かがピアノで音楽をしている様子を過去に見聞きして、ピアノとはこういうふうに弾くのだというイメージをそこから得て、そのイメージのようにピアノを弾いてみる。そういうことも、上に書いたうちのどなたかにはあったのではないか。ストリートピアノの場ではこどもさんがピアノを鳴らすことがよくあるけれど、その鳴らし方は上に書いたようにこどもさんそれぞれで違う。たぶん、こどもさんが見聞きしてきたピアノ演奏の様子がそれぞれに違うのだろうと思う。それはおとなの方が初めてピアノを鳴らす場合でもそういうことがあるだろうと推察できる。その方がイメージしている「ピアノを弾く」ことをなぞってピアノをお弾きになっていた方も、上に書いた中にはいらっしゃっただろう。そんなふうにしてその方のイメージでピアノを弾けば、それがその人ならではの独特な音楽になっていくのだと思う。それについては後でもう少し書きたい。

 

 上に書いたさまざまな演奏をなさった方々と、「正式」に音楽を学んだというか、「正統的」な音楽文化を学んでそれに沿った音楽をしている方々との違いは、突き詰めて言うなら、所定の音楽文化に備わっている規範に沿って音楽をする知識や技能をいま持っていて、その知識・技能を使って音楽をしているかどうかの違いだろうと思う。それ以外のこと、たとえば表現する意思の明確さや意志の強さみたいなことの違いは、あるとしても程度や強度の違いではないかと思う。というよりそれらは、違いがあるのだと他人が決めつけることができない性質のことであるように思う。

 特定の音楽文化、特に古くからの伝統に根ざしていたり広く人々に受け入れられ親しまれている音楽文化、具体的にはクラシックやジャズやポップスなどの大きなジャンルを成して世界各国で親しまれている音楽文化のどれかに通じて、その音楽文化の優位性みたいなものを信じている人や、そうした文化に自分の人生を懸けてきた人からすると、そうした音楽文化が持っている規範や価値規準からずれていたりそれらに適合していなかったりする音楽は音楽でないように思えたり、そうした文化に則しようとすることが音楽であることの必要条件であるように思えたりする場合があるかもしれない。そうした文化の中で音楽をしてほかの人たちの音楽をその文化の価値に照らして聴いて評価を下すのも、それはそれでそういう道なのだろうと思う。

 そのいっぽうで、そうした個別の音楽ジャンルのどれかに、そしてその伝統に深く根ざすのでなくても、人は、音楽することを自分で知っているのでは。そして現にやっている人がたくさんいるのでは。そう私は思う。こういうふうに体を動かして音を鳴らす、こういうふうに音を立ててみようとして音を鳴らす、そういうときにはその人はある意味でたしかに、音楽をしているのだと思う。私がそう思うようになったのは、こうしてストリートピアノの場でさまざまに音を鳴らしている方々の音を聴き、そこに音楽を感じてきた、その経験があったからだと自分で思う。上に書いた方々はどなたも何か、こうしようとして、それぞれに何かしらを思って、音を鳴らしておられたようだった。そこには音楽への意思があったと私は思う。

 そして人が何かを思って音を鳴らすことをしているとき、それは音楽になるのではないだろうか。手を動かして右手と左手とでメロディーを生み出していた方は、おそらくその方ご自身が思う「ピアノを弾く」をご自身の手でピアノで実行していた。優しいクラスター奏法の方もそうだったろう。そうした、それぞれのその方の思いから生まれた音は、何かにはなる。そういうふうにその人が何か思って音を鳴らしたその結果の何か、それがつまり音楽だと。そして私にはたしかに、その方々の鳴らしていた音が音楽に聞こえた。

 上のどなたも、音楽をなさっていた。そう思う。というよりそうとしか思えない。「その方なりに音楽をする」ということがある。そういうことができる。そしてそういう音楽があるのだと思う。

 

(2) 生まれざる音楽が生まれ、知られざる音楽が知られる場としてのストリートピアノ

 世の中にはそんなふうに、その方なりの仕方で音楽をしている方がたくさんいらっしゃるのだろう。「正式」な音楽の勉強をして「きちんと」楽器を習ってという道でなくて、あるいは「正式」な勉強を一時期していたり誰かから習ったりしてもどこかの時点からご自身なりの仕方で、音楽をしている方が、ピアノに関してもたくさんいらっしゃるのだと。そうした方々がなさる音楽の一端を、私はストリートピアノの場で聴いたのだと思う。

 そうした方々は、ふだんはどこで音楽をなさっているのか。お家にピアノがあってそこでずっとひとりで、せいぜいご家族に知られるくらいで、弾いてこられたのかもしれない。でも、むかしピアノを手放してそれ以来弾いていないという方も少なくないだろう。

 そうした方々の演奏、音楽は、ほかの人に知られないままずっとその方とともにあったのだろうと思う。場合によっては、音にならないまま。そうした知られざる音楽が、ストリートピアノで実現した、この世に音として生まれ出た。私が聴いたのはそういう音楽だったのかもしれない。そう考えると、ストリートピアノはそうしたひとりで音楽を続けておられた方々の音楽がこの世界に生まれ出る1つの新たな機会だったのかもしれないし、それを私やほかの方々が耳にする場、窓だったとも言えるかもしれない。

 逆に考えるとそうした方々の音楽は、ストリートピアノの場ではじめて、人に知られる音楽になったのかもしれない。そうした方々はたとえばライブハウスでご自身の音楽を披露なさったり、ステージに立ったりなさるだろうか。レッスンを受けてピアノを弾いている方々なら発表会などの機会があるかもしれないが、ご自身ならではの音楽をひとりでなさってきた方々はどうだろう。いまは一般参加型のピアノイベントも開かれたりしているが、そういうところにエントリーしてご自身の演奏を披露したいと思われたりするだろうか。そうまでするつもりがない、という方もそうとう多いのではと思う。でも、ストリートピアノのようにふだんの生活のそばに、すぐそこにピアノがある、という状況があったなら、ピアノがあるからちょっと弾いてみようという気持ちになることはありそうだ。上に書いた方々のうちにもそういう方が多かったのではという気がする。

 そして、そもそもピアノを弾いたことがまったくない、あるいはほとんどない方も、そこにストリートピアノがあることで、ちょっと弾いてみよう、鳴らしてみようと思って、音を鳴らしてみる、ということがたくさんありそうだ。上に書いた音楽のいくつかはそういう方の音楽だったのではないかと思う。そういう方はなおのこと、ステージやイベントでピアノを弾こうとは思われなかっただろう。すぐそこにピアノがあったからこそそうなさって、その方の音楽が生まれたのだろう。

 そうしてみると、ストリートピアノはそういう生まれざる音楽がこの世に生まれ、ほかの人たちに知られずに営まれてきたその人の音楽がほかの人たちに聞かれ、届く、そういう機会になりうる場なのだろう。きっと実際にそういう機会になっているにちがいない。上に書いた方々の音楽を思い出しながらそう思う。

 

 そのことを「ほかの人たち」のほうに即して考えてみると、この世の中のどこかでさまざまな人がその人なりの音楽をやっていることを、ほかの人たちは知っているだろうか。そういうふうに音楽をしている方のご家族ご親戚ご友人であれば知っているかもしれないけれど、そういうふうに世の中のいろんな人が音楽をご自身なりの仕方でやっているという認識までは持っているだろうか。そして、ストリートピアノの場ではじめて実現した音楽は、ほかの人たちにはもちろん初めて届くわけである。そんなふうに楽器があれば、そこに人が訪れたなら、そこではじめて生まれる音楽がある。そんなふうに音楽することができる。そういうことが世の中の人たちに認識されているだろうか。

 ストリートピアノはさまざまな人の音楽表現が生まれる場であるわけだけれど、さまざまな人の音楽表現にほかの人たちがたまたま接することがある、そんな場でもある。こうしてストリートピアノでさまざまな方の音楽を聴き、そのことを書いてきたいま、ストリートピアノは、世の中にたくさん出回っている「正式」な仕方でなされている「正統的」な音楽のほかにも、こうした音楽の仕方があるんだ、こうした音楽がありうるんだ、ということを、社会の人たちが知ることができる場でもあるのだと思う。

 というより、ピアノにかぎらず音楽にかぎらず、市井の人たちのそうした「生の」表現に接することができる機会、場というものが、いま私たちの社会にどのくらいあるだろう。どのくらい保障されているだろう。プロやプロを目指す人たちの研ぎすまされたパフォーマンスとは違う、ただ音楽をしている人たちの、あるいははじめて音楽をしてみた人たちの、その人なりの表現。そういう表現に触れることで人は、人の何たるか、表現の何たるか、音楽の何たるかを、より広く知ることができるのではないだろうか。より深く考えることができるのではないだろうか。そういうきっかけを与えてくれる場がストリートピアノのほかに、この社会にいったいどれくらいあるだろう。

 

 ストリートピアノの場で聴いたさまざまな方々の独特の演奏、独特の音楽が、そうしたことを考えさせてくれた。きっと、もっと多くのことをこれから、考えさせてくれるにちがいない。その可能性があるというそのことだけで、私にとってストリートピアノは、大切な場だ。そして私だけでなくて世の中のたくさんの人に、その可能性は開かれているのだと思う。

 

 

§§

 

 あのときのあの方々の演奏、音楽を、独特という言葉で特別にくくることは、心苦しかった。そういうことはもうしなくていいだろうかと思う。それぞれの方のその方なりの音楽。音楽なのだから。「正統的」であってもなくても、その方の音楽を、その方から発する音楽を、これからも私は聴きたい。

 

 

 

***

ストリートピアノの風景【2023年夏】 その5

 

 

 

この夏に福岡・佐賀のパブリックピアノ(ストリートピアノ、駅ピアノ、公共施設のロビーピアノなど「誰でもどうぞ」と開かれているピアノ)を訪ねて聴き弾きした私の体験記、今回がラスト。

 

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この夏の体験記の最後は、ピアノの場の現地で時間を掛けて滞在して聴いていたときのことを書きたい。2日分。日にちは連続ではない。1日目は2時間50分ほど、2日目は4時間半ほどピアノの場にいて、ピアノから少し離れた所でさまざまな方々の音を聴いていた。

自分のメモに、お弾きになった方々の見た目のおおまかな御年代とグループの人数、曲目やジャンルをわかる範囲で書いていて、今回はそのメモをたよりに、お弾きになった方の全員を時間順で書きたい(注1)。

ピアノを囲んで複数の方々のあいだで交流が起きるようなことも何度かあった。自分も関わったりしている。それもメモに書いているので、そのときの様子も手短かに書こうと思う。ピアノの場の雰囲気だったり、その場で起きたことの流れだったりを読んでいただけたらありがたい。

 

今回も場所と日時の子細は伏せる。曲目も、これを載せると弾いた方がほかの人から特定されそうな曲については載せていない。もちろん私がわからなかった曲はタイトル無しで、聞いた感じでのジャンルを書いている。

ピアノの場でこんなことがあったという話はこれからも何かのときに書くと思うけれど、それは断片的に書くつもりで、こうしてたくさんの出来事を通しで書くのはひとまずこの夏の体験記だけにしようと思っている。

 

ストリートピアノというと世間ではユーチューバーばかり弾いているとか偏ったイメージが持たれている様子があるけれど(注2)、少なくとも私が訪ねて聴き弾きしている福岡や佐賀のピアノの場では、いろんな方が弾いたり鳴らしたりして、いろんな出来事が起きている。今回の記事を含めてこの体験記を通して、ストリートピアノ、パブリックピアノの実際の姿の一例二例が、そしてそうしたピアノの場が開く可能性みたいなものが、いくらかでも伝わっていったらいいなと思う。

 

 

注1:

ピアノに向かわれたそれぞれの方やグループ(御家族連れ、御友人同士、カップルらしき方々)を1組ごとにアルファベットで書いている。1日目の方々は大文字、2日目の方々は小文字。「私」は私が弾いたとき。アルファベットの横の数字は来られた御人数。今回、グループで来られた方々はその中のどなたかお一人だけがお弾きになることがほとんどだった。グループの中の複数の方がお弾きになった場合は文章の中でわかるように書いた。

注2:

メモにはお弾きになる方が動画を撮っているかどうかはあまりきちょうめんに記録していない。私が訪ねている福岡や佐賀のピアノの場では、グループで来られた方のお一人がピアノを弾いているあいだ、ほかの方がスマートフォンでその様子を撮っている光景はふつうにある。またお一人で来られた方がピアノの脇にスマートフォンを置いて撮影していることもあまりめずらしくはない。そうした方が動画をどこかに上げているか、御自身や御仲間内だけで視聴しているかはわからない。ただ三脚を使って撮影する人はめずらしい。ユーチューブなどに積極的に動画を上げている方も数人存じ上げているけれど、どなたも良心的に場に臨んでおられる。現場はユーチューバーが占領、みたいな状況からはほど遠い。そこは今回の記事含めてこの体験記をざっと通して読んでいただけると伝わるのではと思う。

 

 

 

*** 1日目

 

A1 おとなの方。Summerを優しくお弾きになった。

 

B4 中学生くらいの方々。お一人が何かの曲をジャズ風にお弾きに。聞いたことがある曲だったけれど曲名はわからない。

 

C2 おとなの方。お一人がLet it beをお弾きに。

 

私 短い即興演奏をして、Aquaを弾いた。後ろから来られた方に拍手をいただいた。

 

D1 おとなの方。楽譜をたくさんお持ちになり、ぱたぱたと楽譜をめくりながらクラシック曲を続けて5曲お弾きになった。

 

E2 こどもさん。親御さんと一緒にDの方が弾いている後ろに来られて、Dの方と交代してお弾きになった。ドビュッシーアラベスク1番。

 

Dの方がまたお弾きに。ドビュッシーつながりということなのか、月の光を少し弾きかけて、月光第1楽章にチェンジなさった。さらにクラシックを1曲。

 

F4 こどもさん。メロディーだけで、大きな古時計、いつも何度でも。年上のきょうだいさんらしきこどもさんと、もっと小さなこどもさんが隣についていた。

 

私 いつも何度でもを少し弾いた。Fのこどもさんが戻ってきて見てくれた。こどもさんがにこにこしているので、いま弾いとったねと声を掛けると、首を振って逃げていった。そのあと、聴いてくれていたかどうかわからないけれど、さんぽとSummerを弾いた。

 

G1 おとなの方。アラベスク1番、ショパンノクターンノクターンは私も好きな曲だったので話し掛けた。福岡の方ではないとのこと。これまで弾いたアップライトの中でいちばんいいとのお話。ショパンがお好きとのことだった。しばらくお話をしてその後お立ち去りになった。

 

H2 こどもさん。親御さんとやってきた。千本桜をお弾きに。

 

I1 そこへやってきたおとなの方。ヨーロッパの方だそう。Hのこどもさんに即興演奏の仕方を教えている様子。コードを、C・Cm・C7とお教えになり、それで弾いてみるようにと話している感じ。

 

 こどもさんと親御さんとその方とで、ピアノのそばでいっとき話をなさっていた。おもしろそうなので私も近くまで行って聴いた。Iの方が御自身で少し即興をお弾きになった。NHKの駅ピアノ海外編を見聞きしている感じだった。飛行機の時間が迫っているようで、そこまででお立ち去りになった。こどもさんはびっくりしながらもおもしろかったよう。そういう即興をするのもまたピアノの楽しみですね、と、そのこどもさんと親御さんに話した。Hのこどもさんと親御さんはそのあともしばらくピアノの近くでほかの方々の演奏を聴いておられた。

 

J2 おとなの方お二人。お一人がもうお一人に弾いて聞かせる感じ。

 

Eのこどもさんが戻ってきた。ほかの方々の演奏を親御さんと聴いている。

 

Hのこどもさんがまた千本桜をお弾きに。

 

K1 おとなの方。Hのこどもさんの千本桜を聴いていたようで、千本桜をお弾きになった。

 

Gの方が戻ってこられた。そこにいるEのこどもさんがさっきアラベスク1番を弾いたことをお教えした。

 

Gの方 アラベスク1番をお弾きに。弾き始めると、聴いていたEのこどもさんが驚いて、笑顔になった。弾き終えてEのこどもさんと親御さんとお話しになっていた。

 

L1 おとなの方。カリブの海賊、ほか2曲お弾きに。

 

M1 おとなの方。1曲。

 

N1 おとなの方。バルトークみたいな作風の曲。

 

 そのあと、Gの方とEのこどもさんとがピアノに向かい、こどもさんがアラベスクを部分的にところどころ弾き、Gの方がそのつど何かお話をされていた。その場で即席のピアノレッスンが始まったみたいなご様子だった。

 そのあいだ私は離れた所で聴いていた。やがてGの方がお立ち去りになり、Eのこどもさんと親御さんもお帰りになった。

 

O1 スーツ姿の方。何かポップス風の曲を、つかえつかえしながらもお弾きになった。

 

私 少年時代を弾いた。

 

P3 おとなの方々。大声を機嫌よく出しておられた。お一人がねこふんじゃったをちょっと間違えながらお弾きになった。

 

 以前ここのピアノでクラスター奏法というか音のかたまりを優しいタッチで鳴らしておられた方が、ピアノの場の近くにずっと居られて、いろんな方々がお弾きになるのを聴いてらっしゃった。一緒に聴きながら少しお話をした。ほかの方の演奏に手拍子を送っておられた。

 

 

 

*** 2日目

 

ピアノの場に着いたけれど弾く方がおられない。今日は早めに弾こうと思って、Summerを弾いた。

 

a3 こどもさんが白鍵でAからのスケールをお弾きに。

 

私 Aquaを弾いた。

 

b5 やや大人数のおとなの方々。お一人がねこふんじゃったをお弾きに。

 

c1 おとなの方。バラード3番。

 

aのこどもさんがいるのが見えたので、ピアノに出て行ってさんぽを立奏した。

 

しばらくのあいだ誰も弾かない。

 

d1 おとなの方。楽譜を立てて、時代をお弾きに。

 

 ここでやってきた方がピアノを弾いているdの方に話し掛けて、時代をdの方のピアノに合わせてお歌いになった。そのあとお二人で話をしながら、dの方が糸と愛のあいさつをお弾きになった。初対面のご様子だが、共通の話題でお話が弾んでいたようだった。

 

e1 その話し掛けてきた方。dの方がお立ち去りになったあと、演歌をメロディーだけでお弾きに。そのあとで私もこの方に話し掛けた。

 

f1 ときどきお見かけするおとなの方。千本桜などをお弾きに。後ろでお聴きになる方々が。

 

g1 ときどきお見かけするおとなの方。コナンをお弾きに。そのあとほかの方と入れ替わりで何度かお弾きになった。

 

h1 ときどきお見かけするおとなの方。いつものように、いろんな曲を間断なく手早くお弾きになった。伴奏をよく聴いていたら、休符のときにベースで直前のメロディー音を繰り返すという仕方で伴奏を付けておられるようだった。

 

i1 若い方。悲愴第3楽章。

 

私 少年時代を弾いた。聴いてらっしゃった方から、もっと弾いてくださいと言われた。

 

j1 おとなの方。聞き覚えがある曲だったけれどわからなかった。

 

k1 おとなの方。丸の内サディスティックほか、全4曲くらいお弾きに。

 

l1 交代したおとなの方。演奏会用のクラシック曲。

 

m3 おとなの方々。お一人がアンドレギャニオンの曲やピアノマンなど3曲ほどをお弾きに。そのあとピアノの近くに残って、話をしながらほかの方々の演奏をお聴きになっていた。

 

n2 おとなの方お二人。お一人がロックの曲をお弾きに。

 

o1 おとなの方。Kiroroの歌。

 

p4 御家族で来られて、こどもさんお二人がお弾きに。何か教材曲らしき曲、そしてエンターテイナー。

 

q4 若い方。何か歌らしき曲。

 

r2 若い方。ゲームの曲?

 

s1 若い方。ゲームの曲?

 

私 Summerを弾いた。拍手をいただいた。

 

 mのお弾きになった方にピアノマンすてきでしたと話し掛けた。私の演奏にもありがとうございましたとおっしゃっていただいた。その場を後にした。

 

 これで帰るつもりだったけれど、近くの公園で少し休んで、またピアノの場に戻った。ピアノを弾く方も囲む方もどなたもおられなかった。この日の自分の最後に、グリーグの農夫の歌と、What a wonderful worldを弾いた。静かに弾き終えた。

 

 どなたか弾かれるのをもう少し聴きたいと思ってその場に残っていたら、調律の方が来られてピアノの調律が始まった。挨拶とお礼を申し上げて帰途についた。

 

***

 

 

ストリートピアノの風景、お読みくださりありがとうございました。

ストリートピアノの風景【2023年夏】 その4

 

 

この夏、福岡・佐賀のいくつかの場所のパブリックピアノ(いわゆるストリートピアノ、駅ピアノ、ロビーピアノなど誰でもどうぞなピアノ)を訪ねて聴いたり弾いたりしたときの体験記、その4。

場所と日時は伏せて、いくつかの場所、いくつかのときをまとめて載せている。その場でとったメモをもとに状況と情景を思い出しながら書いている。ただ、メモを読んでもあまり精細に思い出せないことも多く、今回は細かくは書かないで短めの文で、そのかわりなるべく多くの方のご様子を書くようにしてみた。

 

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***

 

 こどもさんが少しだけピアノを鳴らしてすぐ去って行った。

 

 さんぽを弾いた。こどもたちが歌ってくれて、おとなの方が大拍手をくださった。

 

 こどもさんと親御さん。ドレミの歌を高音域で弾いておられた。拍手をお送りした。

 

***

 

 おとなの方が、春の歌やエリーゼのために等の曲をお弾きに。少しつっかえながらだけれど以前は弾き込んで弾き慣れてらっしゃったような、そんな音がする。途中で待ち人が来られて、お立ちになった。拍手を差し上げたらちょっとびっくりされたようで、それでもにこやかに去って行かれた。

 

 こどもさんきょうだいでピアノをかわるがわる弾いて、年長のこどもさんがひとりで弾いた。千本桜を弾こうとしていたようで、途中の同じところでつかえているようだった。

 そのこどもさんたちが去った後に来た若い方が千本桜を弾いた。音がよく響いていた。そのこどもさんがそこに戻ってきた。でも弾く方を横目で見る感じで通り過ぎていった。若い方は演奏後に、そばで聴いていた方々からピアノ歴を尋ねられていた。

 

 ピアノに小さなこどもさんが近づいてきた。弾きたいの?と、親御さんらしき方が尋ねる。ドレミファをお二人で弾いた後、こどもさんが音のかたまりを鳴らしていた。

 

 そのあと私がピアノを弾いた。こどもさんと親御さんが離れた所から聴いてくださっていたようだった。

 

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 こどもさんが親御さんに教わりながらピアノを鳴らしていた。すぐ去って行った。

 

 鍵盤を押すこどもさん。

 

 おとなの方がお二人。話をしながら、お一人がハノンをお弾きになっていた。

 

 ソナタを弾くこどもさん。

 

 お二人で来られた方々。お一人がもうお一人から教わるように弾いておられた。教えているほうの方が隣でねこふんじゃったを弾き始めた。

 

 小さなこどもさんがピアノを鳴らす。習っているわけではなさそうだったが、Cの音を中心にして鳴らしているようで、メロディーに聞こえた。

 

 若い方がウォーキングベースで白鍵で、何か掘り進めるようにして一生懸命に曲を弾いてらっしゃった。

 

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 小さなこどもさんがチューリップを弾いた。

 

 グループでやってきた若い方のお一人が、ねこふんじゃったを忘れ気味ながらお弾きになった。

 

 若い方がやってきて、楽譜を広げてしばらくのあいだ同じポップスの曲を繰り返し弾いておられた。お連れの方がピアノの近くで少しぶらぶらしながら聴いてらっしゃった。

 

 こどもさんがクラシックのよく知られた曲を弾いていった。

 

 こどもさんがエリーゼのためにを弾くけれど5小節目で引っ掛かってその先へ進めない。そのあと、親御さんを連れてきて弾いて聴かせようとしていたけれど、やはり同じところでつっかえて、弾くのをやめて親御さんと一緒に去って行った。

 

 こどもさんが1音だけ鳴らしていった。

 

 こどもさんがブルクミュラーのバラードを弾く後ろで、年少のきょうだいさんがくねくねと踊っていた。

 

 そろそろ自分も弾こうかと思ったけれど、近くで電話を始めた方がおられて、弾くのをしばらく待った。電話が終わってからピアノのところに行って弾き始めた。弾き終えてピアノを離れるとき、その方と目が合った。小さく会釈を交わした。

 

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 以前声を掛けてお話しした、いつも校歌をお弾きになる方。校歌で始まり、いくつかの曲を立て続けに弾いて、校歌で締めくくってさっとお立ち去りになった。

 

 ピアノ椅子に座っただけで去って行ったカップルの方々。

 

 ショパンのバラードを柔らかくお弾きになった方。

 

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 何か古典曲を弾くこどもさん。

 

 校歌をお弾きになる方。校歌以外もいつも同じような曲を同じような順番でお弾きになっている気がしたので、曲のメモを取ってみた。ルーティンにしておられるのかもしれない。

 

 お二人で来られてお一人がピアノを弾いてもうお一人に聴かせておられたり、お一人で来られた方がお弾きになっていたり。そうしたご様子のおとなの方々がこの日は多かった。

 

 私が弾いた後、近くのソファにずっと掛けておられた方が、Aマイナーのスケールをぽんぽんと押していった。

 

 周りの方にピアノを弾くよう勧める方が現れた。御自身はお弾きにならないようだった。

 

 こどもさんがピアノをさわっていった。

 

 さっき弾いておられた方がまた来られた。同じ曲をお弾きになっていった。

 

 お二人で来られた方々。お一人がもうお一人に付き添ってもらいながら、アニメ映画の歌を少しお弾きになった。

 

 グループで来られた方々のお一人が少しだけ何か弾いて、みなさんで去って行った。

 

 お二人で来られた方々が交代しながら何か歌らしき曲をシンプルな伴奏でお弾きになっていた。

 

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 定例イベント設置のストリートピアノ、ふだんはこどもさんが多いが、今日はおとなの演奏者の方がいらっしゃった。弾き語りをなさっていた。会場の方々が聴き入っておられた。

 

 自分は夏の曲を弾いた。そろそろ夏の曲も弾き納めになりそうだった。

 

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次回がこの夏のストリートピアノ体験記のラストになると思う。次回に続く。

ストリートピアノの風景【2023年夏】その5

https://draume.hatenadiary.jp/entry/2023/10/18/192637