或る草の音

そこにある音楽 ここに置く音楽

生まれたものの「かさ」

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人が生きるところには音楽が生まれうる。言葉、声かもしれないし、舞踊かもしれないし、絵を描くようなことかもしれないけれど、どのような仕方で何のかたちをとるとしても何か生まれるし、それは音楽としても生まれうる。人がひとりいたら音楽が生まれる可能性はそこに少なくともひとつある。そう思う。

 

「才能」とか「教育」とかの何かの違いで発現する程度が多少違うのかもしれないけれど、可能性はそれぞれの人ひとりひとりにあるものだと思う。そしてどこかで誰かが発現させているものだとも思う。ほかの誰かに受け止められるか受け止められないかに関わらず。

 

その発現のどれにも、生まれたもののどれにも、生まれたものなりの固さ、重さ、「かさ(嵩)」のようなものがある。ほかの人たちが、あるいは生み出した自分自身が、どんなに軽んじようとも、その「かさ」はあるのだと思う。

 

 

しかしその「かさ」を、ひょっとして、だいじにするのでなく軽んじる文化を作って維持して広げてきたのではないか。音楽をめぐっては。音楽だけでなくさまざまな表現をめぐってそうだったのでは。

 

誰にあっても生まれうる音楽。そしてその生まれたものの「かさ」。世で言われる「音楽」のあれこれについては、そういうところから考え直す必要があると感じている。

草としての音楽

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まちの草を見るようになって20年少し経つ。音楽への関心と草への関心とはもともとまるきり別なものだったけれど、このごろ音楽と草とを取り合わせて考えることがよくある。あまり結びつけたいとも思っていなかったのだが、このごろは底で通じるものを感じている。

 

音楽は草のように生える。自分の音楽は自分にとっては草が生えてくるように生まれてくるし、自分がどこかの場所で自発的に演奏をするときその場所にとって自分の演奏は自然と生えてきた草のようなものなのだと思う。社会にとって音楽はある意味、ひとりでに生えてくる草のようなものなのだろうとも思う。

 

どこかの「場」において自発する。自生する。音楽もそういうものだろうと思う。世話したり育てたりすることもできるし、放っておけばそれ自身として育っていき、枯れる。そして往々にしてその生えてきた「場」から駆逐され、その「場」に都合の良いものが残され、都合の良いものに作り替えられる。

 

たくさんの人が楽しんで聴く音楽は、草が選別され改良された園芸品種の草花のようなものだと思う。園芸種の草花がもっぱら鉢や花壇で育てられ愛でられるように、イヤホンの中や演奏会場で鳴り響く。

 

園芸種の草花ばかりが草花ではない。でも多くの人は園芸種の草花しか草花として見ていない。

 

街にも園芸種の草花を植えたがる。街はもともとそこに生えていたたくさんの植物を放逐しながら出来てきた。草が生えないようにされた土地の隅にかろうじて草が生え、人はそれを引き抜いたり枯らしたりして無くし、そうやって無くしたはずの草花を花壇に植える。自身に都合良くした草花だけを。

 

でも園芸種の草花だけが草花ではない。

それとまったく同じで、たくさんの人が楽しんで聴いている音楽だけが音楽ではない。

 

草を放逐し、草が生えないようにされた街に、かろうじて生える草たち。そのようにして街に生きている草たちは、街の人々に、園芸種の草花だけが草花ではないことを生きて示している。そして、ここにも草が生きているのだと示している。

 

同じように街に音楽が生えるとき、街の人々は、自分が聴いてきたものだけが音楽ではなかった、たくさんの人が知っている音楽だけが音楽ではなかった、これもまた音楽なのだと、気づくだろうか。

音楽はそのようにして生まれてくる、そのように音楽は街にも生まれてくるのだ、ここにも音楽は生きているのだと、知ることができるだろうか。

 

アケタ式オカリナとのつきあい方/私家版

小穴の目的について考えた箇所でまちがいを書いていたので修正しました。そのほか、細かいところの説明を手直ししています。2022年4月12日

 

 

 

オカリナで低い「ラ」の音を鳴らすときにふさぐ小穴の位置が、(いわゆる)アケタ式の位置だとふさぎにくいという話がネットではずっと言われていて、アケタ式で重宝している自分は肩身が狭い。

最近のオカリナ事情には詳しくないけれど、実際に販売されているオカリナもその多くは別の方式のよう。でも、もしアケタ式が衰退していくようなことにでもなったらいろいろ残念なので、アケタ式の低い「ラ」の小穴(以下、アケタ式小穴と書くことにする)の、自分がやっているふさぎ方とちょっとした活用法を書いてみる。

自分がそうやっているだけで、誰かからそう習ったというわけではなく、ベストな方法かどうかはわからないので、念のため。

 

こういう話は教室で教える事柄かもしれないけれど、そういう事柄がまるきり世間に伝わらないでただただアケタ式がやりにくいという話だけ流れるのでは、それはやっぱり先細りになってまずいと思う。

アケタ式小穴のことにかぎらず、楽器のテクニックに関してはある程度、こうした話が出回るほうがいいのかなと思う。

 

 

 

★ アケタ式小穴のふさぎ方

 

 

【低い「ラ」】

 

低い「ラ」を鳴らしたいときの小穴のふさぎ方は、どの音から低い「ラ」に行くか、その次にどこへ行くかによって少し変わる。オカリナはどれでも、この音を鳴らすためにどの穴を押さえるかだけでなく、この音からこの音に移るために指をどう動かすかという、音運びに合わせた指の動きが重要だと思う。

 

たとえば低い「シ」から「ラ」へ行くなら、右手の人差し指(〜小指)の付け根を少し「くいっ」と左に寄せて、その動きで右手人差し指の第2関節近くで小穴をふさぐ。

この穴はふさぎ方のアクションが特別だと思っておいて、この「くいっ」のアクションをさっとできるように慣れるといいと思う。

 

低い「ド」から行く場合は、中指を向こう側へスライドさせて中指小穴をふさぐのと同時に、この「くいっ」のアクションをやって人差し指の小穴をふさぐ。「くいっ」のアクションは小さく、ちょっとだけする感じになる。

 

「ソ」や高い「ラ」から行く場合は、私は、「くいっ」のアクションの後の状態になるようにかぽっと指をかぶせる。

 

 

【低い「シ♭」】

 

低い「シ♭」(ラ♯)を鳴らしたいときは、たぶんメーカー添付の説明書などでは右手中指の小穴を開けたままでこの低い「ラ」の小穴をふさぐと書いてあると思う。アケタ式の場合、(1)そのふさぐ小穴を上に書いた「くいっ」のアクションで押さえる方法と(たぶんやや音高が高くなるので息を弱める必要がある)、(2)中指の小穴を全部ふさいで(低い「シ」と同様)それと同時に、中指と同じように人差し指を向こう側へスライドさせて動かし、人差し指の中間あたりで小穴を半分くらいだけふさぐ方法とあって、(1)と(2)を使い分ける。自分はほぼ(2)でやっている。

たとえば「花は咲く」をC管でヘ長調で演奏するときの冒頭、低い「ド」「シ♭」「ラ」の連続する箇所は(2)の方法で吹くとスムーズだけれど、(1)の方法では中指が滑りづらいなと思う。(1)だけ覚えているとなかなか難しいかもしれない。でも低い「ド」と「シ♭」を交互に繰り返すような音運びのときは、(1)のほうがやりやすいだろう。

この音に関してはアケタ式はたしかに、ほかの方式より少し難しいかもしれない。

 

 

【難しい音運びについて】

 

アケタ式はたとえば、低い「レ」と低い「ラ」を交互に繰り返すようなメロディーが難しい。でも、低い「ラ」から低い「レ」に移るだけなら慣れればかんたんにできるようになると思う(「コンドルは飛んでいく」の冒頭がこれ)。

いっぽう、たとえば低い「ラ」と高い「ラ」を交互に繰り返すのは、アケタ式では(指の動きだけなら)ぜんぜん難しくない。

小穴の位置のいろいろな方式はそれぞれちょっと苦手な音運びがあるけれど、たいていの場合はどの方式でも、慣れや工夫で対応できると思う。

 

 

 

★ アケタ式小穴の活用法

 

 

【チューニング】

 

で、アケタ式小穴は実はチューニングに使える。低い「ラ」を使わないでそれより上の音域だけ使う場合限定の話だけれど、小穴を少しふさぐことでピッチを下げることができる。

 

はがせるシールを穴の縁にかかるように貼って穴を少しだけふさぐと、楽器のピッチを下げられる*。この状態でたとえば低い「ド」を鳴らすと、シールを貼らないときの音よりも、穴をふさいだ分、音が下がる。

*このときピッチの下がり具合は低い音域ほど大きく下がる。低い「ド」のあたりだとけっこう下がるけれど、高い「ミ」「ファ」のあたりではほとんど下がらない。なので、この方法でピッチを調節する場合、息の入れ加減も変わってくる。適切なピッチを出すためには息の調節をする必要がある。

 

また、演奏中に右手人差し指を本体に寝かせて穴を少しだけふさいで、演奏中にピッチを下げるという使い方ができる。演奏中にオカリナが温まってきてピッチが上がってきたときや、調子に乗ってきて息が強くなってきたときに、その方法でピッチが上がるのを抑えることができる。ほかの方式のオカリナだとこういう使い方がちょっと難しい。

 

 

 

【音を強める】

 

逆に、音高を保ちながら強く吹きたいときにも同じようにしてこの小穴が使える。ふつう少しずつ息を強めていくと音高が上がっていく(うわずる)けれど、少しずつ息を強めるのと同時に少しずつ小穴を指でふさいでいくと(ふさがないで指を穴の上にかぶせていくだけでも)、音高を上げずに音を強くしていくことができる。この方法でクレッシェンドができる。

 

ある音をふだんよりも強く吹きたいというときに、小穴をふさいで強い息で演奏するということもできる。

 

この方法は小穴にかぎらず、どこかの開けている穴の上に指をそっとかぶせていけば同じことができるので、アケタ式が特にやりやすいというわけではない。でも、小穴が自分から見て(自分の指から見て)奥のほうではなく手前のほうにあると、こういう目的で使いたいときに操作しやすいのはたしかだと思う。

 

 

 

★ 

 

ここからは自分の想像というか推察が入るけれど、アケタ式の小穴はもともと、低い「ラ」を鳴らすためというよりは、ピッチを安定させる目的が大きかったのだろうと思う*。

* それ以外のねらいもあったのではないかと思う。でも細かい話になるのでここでは掘り下げない。

 

むかし、ほとんどのオカリナは指穴が10穴で、最低音(指穴を全閉鎖して鳴らす音)が低い「ド」だった。ただ、オカリナはピッチが気温や息の強さで変わってしまう性質があって、特に息の強さによる変動は低い音域ほど大きい。低い「ド」あたりは息のちょっとした加減で大きくピッチが変わってしまう。低い「ド」までフルに使いたいとき、その点が吹き手にとっては難しさになっていたと思う。

そこで、オカリナをあらかじめ少し大きいサイズで作ることにして最低音の音高を下げる。最低音の音高を下げると低音域がさらに低いほうへ広がる分、広がる前のもとの音域でのピッチ変動が小さくなる。

アケタ式はそういうふうにして、最低音を低い「ラ」に相当する音高(C管の場合だとA)まで下げ、小穴を2つ開けて低い「ラ」や「シ」の音を出せるようにしてキーを整え*、従来のオカリナの音域である低い「ド」から上の音域でピッチ変動を抑えようとしたのだろう。

*穴の数が10穴そのままだとこの拡大版オカリナは、最低音である低い「ラ」の音高から始まるキーになってしまう(最低音をAに下げたならAメジャー、イ長調になる…つまりC管でなくA管になってしまう)。キーを変えないためには(C管のままにするには)小穴を追加する必要がある。

 

それがアケタ式が開発された当時のいちばんの利点だったのではないかと思う。低い「ラ」まで鳴らせるというより、低い「ド」までの音域を安定して演奏できるというのが。

それがしだいに、低い「ラ」まで鳴らせることのほうが重視されるようになって、そのためには小穴の位置がこれでは使いづらいという見方が出てきて、ほかの方式(左手中指小穴など)が登場してきたのではと思う。

 

いまは12穴オカリナがふつうになって、低い「シ♭」「ラ」をふつうに使うから、その点では別な方式がやりやすいのかもしれない。けれど、アケタ式は上に書いたような活用の幅があるので、自分は重宝している。アケタ式には衰退しないでほしいし、アケタ式のオカリナを持っている方はせっかくだから活用してみたらいいのではと思っている。

 

瀧廉太郎「憾」自筆譜をめぐる研究の動向(1)

…ものものしい記事タイトルだけれども。

 

瀧廉太郎のピアノ曲「憾」の自筆譜が2019年に大分県竹田市に寄贈されてから、公開展示されたり調査報告書が刊行されたりと、「憾」自筆譜の存在やその内容が広く知られる機会がいろいろと設けられている。

 

これからは、その「憾」自筆譜に関する研究や、自筆譜を参照した演奏がだんだんと多くなってくるのでは…と期待していたところ、先日(しばらく前になるけれど)、その「憾」自筆譜に直に当たって御研究をなさっている大分県立芸術文化短期大学の喜多宏丞先生から、論文の御紹介をいただいた。

 

瀧廉太郎《憾》の推敲過程 ―手稿譜の比較検証― 大分県立芸術文化短期大学リポジトリ

 

 

「憾」自筆譜(手稿譜)は草稿段階のものと完成稿とみられるものとあって、それらの手稿譜群を比較検討することで「憾」の作曲過程に迫ろうとなさっている。演奏家のお立場からとても丁寧な、そしてところどころ大胆な考察が進められていて、読み応えのある論文だった。「憾」に関心がおありの方にはぜひ御一読をおすすめしたいと思う。

 

なお御研究に際して私の過去記事を御参照くださったそうで、この場であつく御礼を申し上げます。

 

喜多先生は動画で御考察の実演もなさっている。動画として楽しく視聴できるので、実際の音で聴きたい方にはそちらの動画もおすすめしたい。

 

瀧廉太郎 最期のピアノ曲『憾』の作曲過程(クイズ形式で楽しく紹介!) - YouTube

 

 

 

竹田市から刊行されている「憾」自筆譜等に関する調査報告書で大分大学名誉教授の松本 正先生が執筆なさっている御考察とあわせて、「憾」に関する最新の研究動向として広く着目されてほしいと思う。

 

竹田市の調査報告書に関してのこのブログの過去記事↓

竹田市の瀧廉太郎関連資料調査報告書 - 或る草の音

 

 

以上、瀧廉太郎さんの誕生日が今日8月24日ということで、それにちなんでのご紹介まで。

 

 

私の音楽ホームページ『遠い遠い夢の世界…』内の、「憾」ページはこちら。「憾」自筆譜群が竹田市に寄贈されて公開されるよりも前に書いたものなので、いまでは内容が古くなっているけれど、その当時なりのことは書けたのではと思っている。御参考までに。↓

遠い遠い夢の世界... 瀧廉太郎「憾」の自筆譜をめぐって

 

 

 

 

自分という土に育つ苗、としての音楽

 

先日ツイッターに書いたことだけれど、自分がこれから「音楽」というものをこう捉えていきたい、ひとつのかたちのような気がするので、ここにも書いておこうと思う。

 

午前2:32 · 2021年4月23日

さっきも少し書いたけれど、音楽は自分を土として苗のように育つものだろうと思う。作曲家とか演奏家とか聴衆とかを問わず、それぞれの人に音楽がそういうふうに生まれてきて、それぞれの人に育つ。その音楽がもともと作曲家発祥であれ、演奏家を通して知ったのであれ、土に育つ苗はその人の苗だと。

 

その音楽の苗は、人に実現してもらうものではほんとうはなく、自分で育てるものなのだと。あるいはしぜんと育っていくものだと。自分のために育てることもあれば誰かのため何かの目的のために育てることもあろうけれど、自分の土の苗。自分の土に宿る苗だと。

 

そういう苗がさまざまな人の土の上でそれぞれに育つ。それぞれの、ひとつひとつの緑として。それがこの地上なのでは。

 

(そういう地上がいい。自分が食べる菜を育て、囲い、誰かと分け、何か取引して誰かの育てた菜を手に入れることなどあるとしても、さまざまな人のさまざまな苗がそれぞれにそれぞれなりの姿で育つ、そういう地上であり続けたほうがやっぱりいいと思う)

 

 以下、ツイッターの投稿を直に埋め込み。上と同じ文章。

 

 

 

 

 

 

自分の演奏の録音・動画

 

いま、いろいろな方が御自身の演奏を動画投稿して楽しんでらっしゃるようで、ストリートピアノ演奏動画もいわゆるYouTuberの演奏者の方々だけでなく、演奏動画投稿がご趣味の方が多くなってきている様子があって、その流れが興味深いなと思っている。

 

私はあまり自分の演奏の動画や録音をインターネットに上げたいという気持ちがない。だいぶ前に私が一般参加ピアノイベントに出演したときに演奏を聴きに来てくださった方が、私の演奏を客席で録音していてそれを後日聴き返したそうなのだが、生で聴いたときはよかったけれど録音を聴くと…とおっしゃったことがある。自分の演奏はテンポが揺らいだり安定感がなかったりして、繰り返し聴くのに向いていないのだと思う。

 

ただ、録音は以前はときどきやっていて、もうだいぶ古いポータブルMDだけれど持ち歩いて、ロビーや駅のパブリックピアノを弾くときに録音して後で聴き返したりしていた。その後、聴き返して自分の演奏を「聴きやすい」ように変えていくというのが疑問に思えてきて、しばらく録音もやめていた。最近、よく弾かせていただいていたロビーピアノが(一時)開放とりやめになることになり、記念のつもりでまた録音した。それから今年になってスマートフォンを使うようになって外で録音や動画撮影するのがかんたんになり、公園でオカリナやカリンバを鳴らすときにちょっと動画を撮ってみるということもときどきするようになった。

自分がインターネットを使うのは自分がこういうことをやっているという名刺代わりの意味もある。自分の演奏も名刺代わりのつもりで少し公開しておこうかと思う。

 

 

以前からオカリナやカリンバでの自作曲演奏や即興演奏をsoundcloudに載せている。短いものがほとんど。

https://soundcloud.com/user-619551401

 

 

それから、最初の緊急事態宣言が出されていろいろな場所に出かけられなくなった時期に、以前各地のロビーや駅のピアノで録音していた演奏を、また弾ける日が早く来ることを願ってtumblrに上げていた。その投稿録音を1か所にちょっとまとめてみた。グリーグの作品を弾いたものが多い。soundcloudからの転載も一部ある。

draume music

https://draumeverda.tumblr.com/
 
 
公園など外で撮った動画はyoutubeに載せていこうかと思っている。

draume どら梅 - YouTube

 

 

聴いて楽しんでいただきたいというより、こういうことをしているという自己紹介みたいなものとして、今後も各投稿サービスをたまに使っていきたいと思う。

 

 

 

 

 

2021年春のピアノリレー参加記二題 その2:那珂川市のピアノリレー(ピアノの祭)

 

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春というより早春なのだろうけれど、今年の春は一般参加のピアノイベントに2つ続けて参加した。221日に春日市ふれあい文化センターの「ピアノリレーマラソン」に参加したことは前回(ふたつ前の)記事に書いた。

https://draume.hatenadiary.jp/entry/2021/02/27/210342

 

その翌々日の223日、今度は那珂川市のミリカローデン那珂川で開催されたピアノリレーに参加した。

 

那珂川市のピアノイベントは毎年この時期、「ピアノの祭」という名称で開催されている。公募方式、エントリー1組につき5分以内で演奏できるのは春日市のイベントと同様。例年だと午前の部と午後の部に分かれ、各部の最後に集合写真を撮るのが「ピアノの祭」の特徴だった。

今年はその方式が簡略化され、午前中だけ、プログラムなし、MCなし、舞台袖での待機なし、出演者は客席に待機して名前だけ呼ばれて直に登壇して演奏(その直前に手指消毒)、集合写真なし、という方式になった。コロナ禍の中で実施可能な方法を検討してくださった結果だろう。「ピアノの祭」から今回「ピアノリレー」という呼び名に変わったのは、そのあたりの方式の変更を踏まえてのことだったのだろうと思う。

 

「ピアノの祭」も近年はエントリーが難しくなっていた。窓口受付開始の当日早くに定員が埋まる。こちらも私は申込みが何度か間に合わなかった。今回も難しかろうと思いながら申込みに出かけていったら、ぎりぎりでエントリーできた。

プログラムとMCがないということで、曲目の申告もなく、それなら弾く曲は当日その場で決めようかと思った。ふだんロビーや駅の公開ピアノを弾くときにはたいていその場で、この曲を弾こうかと思って弾き始める。ある程度の心づもりはしているけれど、この曲はちょっときょうのこの場所の雰囲気では合わないというような判断をすることもある。そういう、公開ピアノを弾く感じで臨んだらどうだろうと思っていた。

 

ただ、今回春日でグリーグの「春に寄す」を弾くことにしていたので、春日では以前弾いたけれど那珂川では弾いていないグリーグの「春」(弦楽版『2つの悲しい旋律』op.34の中の)を弾きたい、という気持ちがあった。ミリカローデン那珂川ではロビーのピアノが一般公開されていて、手続きすればどなたでも弾くことができる。そのロビーピアノでは以前何度か「春」を弾いたことがあるけれど、ステージではまだない。

当日の前の日くらいまでいくつかの曲を準備して、やはりその場で決めるようにしようとは思ったけれど、当日会場に向かうバスの中で、向こうに見える山の景色を見て、やっぱり「春」が弾きたいと思った。

 

出演者は開演前に受付だったため、当日は客席で最初から他の出演者の方々の演奏を拝聴した。プログラムがないのでどういう方がどういう曲を演奏なさるかわからない。ちょっとスリリングというか、聞いてからのお楽しみというか、おもしろい時間になった。出演なさったのはやはりこどもさんが多く、私もむかし習ったような曲や最近流行している「紅蓮華」や「千本桜」などの曲、それから発表会やこどもさん対象のコンクールで課題曲になるような曲が主だった。そこにおりおり大人の方が加わるという流れだった。親子連弾の方々もいらっしゃった。

情熱大陸ブラームスのラプソディト短調ショパンのワルツホ短調遺作、ベートーヴェンのエコセーズ、さんぽ、戦場のメリークリスマス、糸、ラフマニノフのピアノ協奏曲第2番(連弾)、ラ・カンパネラ、など、いろいろな曲が聴けた。メモをとりながら、この曲はと曲名当てクイズを解いているような気分だった。素朴な音、流麗な音、豪快な音、丹念な音、いろいろな音が鳴り響いていた。こどもさんの演奏を、先に演奏を終えた年上のこどもさんが客席で上体で拍を取りながら聴いていたのが心に残った。

 

自分の演奏はあっというまに過ぎた気がする。この演奏で何ができたか自分ではわからない。でもどんなときの演奏もそれはそうなんだろう。

 

会場となったミリカローデン那珂川の文化ホールは来年度、今度の4月から1年間の改修工事に入る。「このホールで」ピアノを弾くのは今回が最後。終演後にステージに登ってめいめいで御家族ごとグループごとに写真をお撮りになっているこどもさんたちの姿を、客席の後ろのほうから眺めた。しあわせの景色だった。また改修後、「ピアノの祭」が再開されて、同じ景色がここで見られるだろう。

 

ホールを出ると、ロビーのピアノで、さっき出演していたこどもさんがステージで弾いた「人形の夢と目覚め」や弾かなかった曲を演奏していた。弾き足りなかったみたいにして、ピアノを弾くのがとにかく楽しそうにして、弾いていた。率直な、明るい音だった。

ミリカローデンのロビーピアノは上に書いたようにパブリックピアノとして公開されているが、ロビー(エントランスホール)も改修工事で4月から1年間使用できなくなる。それまでのこと、それからのこと(が何かわかれば)を、あまり遠くないいつか、ここで少し書けたらと思っている。

 

ミリカローデンの建物を出ると、脊振の山々が見える。「ピアノの祭」に出演したり聴きに来たり、ロビーのピアノを聴き弾きに来たりするたび、脊振の山々をここから眺める。ピアノリレー終演後の脊振の山々は、春の日差しの向こうに遠くそびえていた。

 

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【追伸】

ピアノリレー当日の演奏がお2組、ミリカローデン那珂川の公式チャンネルで公開されている。

https://www.youtube.com/watch?v=SNjSYq93bj0

https://www.youtube.com/watch?v=qd_qOnAAxVU

 

竹田市で「瀧廉太郎 憾の真実」特別展が開催(情報のみ)

 

 

https://www.city.taketa.oita.jp/topics/?id=3609

 

↑ 上のページが「見つかりません」になっていましたので別のページを紹介します↓ 2021 4/10

特別展「瀧廉太郎 憾の真実」|イベント情報 | タケタン!竹田市観光ツーリズム協会~大分県竹田市の宿泊・温泉・観光情報

 

 

今年(2021年)319日から425日まで、大分県竹田市竹田市歴史文化館・由学館で、特別展「瀧廉太郎 憾の真実」が開催されているとのことです。

 

瀧廉太郎の「憾」自筆譜を含め、竹田市に寄贈された鈴木毅一関係資料中の瀧廉太郎に関係する資料類等が公開される、ということのようです。パンフレットには「古城」の自筆譜も公開されるらしきことが書いてあります。

とりいそぎ情報としてお伝えします。