或る草の音

そこにある音楽 ここに置く音楽

通り行く、隣り合う、人と「ひと」

 

公園でオカリナを吹き始めたのが2013年の暮れぐらいだったと思う。そのころは吹いていると通りかかった方から声を掛けられたり、リクエストをいただいたりしていた。

公共施設のロビーでピアノを弾き始めたのが2012年だったと覚えている。弾き始めて何年かは、やはり通りかかった方から声を掛けられたり拍手をいただいたりということがよくあった。2018年からは駅でピアノを弾くことも増え、私の演奏に合わせてこどもさんが歌ったり踊ったりしてくれ、声を掛けてくださった方にピアノの弾き方をちょっとだけお教えしたり、ちょっとした連弾をしたりということもあった。

 

そうしたことが、なくなってきた気がする。

 

新型コロナのせいではなく、いやそれもあるのかもしれないが、新型コロナの感染拡大以前から、そうした公園や公開の場で自分が音楽をしていて、他の方が関わってくるということが少なくなっていた。公園だと鳥が来たりすることはいまもあるけれど、人が誰か来るということはめっきりなくなった。

 

たぶん、私の音楽が、以前からすると変わったのだろうと思う。オカリナだと以前よりも「曲」を吹くことが減って、即興で短いフレーズを吹いたり、ロングトーンを音を変えながらゆったり鳴らすことが多くなった。以前からもそうしていたのだが、その割合がだいぶ大きくなったと思う。ピアノも以前はショパンのワルツなどよく知られている楽しげな曲をけっこう弾いていたけれど、最近はもう少し内向的というか、内省的な曲を弾き、内省的な演奏をしている自覚がある(「内」というわけではかならずしもないと思うけれども。それから「静かな」曲というわけでもかならずしもない)。いまは自分はどちらかというとそういう音楽を中心にやっていたい気持ちがある。

その様子を察して、通り行く方々が私のことをほっておいて「くれて」いるのかもしれない。いや、取り付くしまがなくて通り過ぎているのかもしれない。

 

あるいは、自分が「場慣れ」したのかもしれない。他の人が聴いてくださること関わってきてくださることに慣れて、いくらか期待もして演奏するような、そういう態度、身振りを、まとうようになったのかもしれない。通り行く方々にしてみるとそれが「鼻につく」ということなのかもしれない。

 

それか、自分の音楽が(やっぱり)どこか壊れたままになっていて、人が惹かれない、ということなのかもしれない。

 

しかし、私がその場所で音楽をしていることが、別にとりたててどうこうということもない、その場所の何の変哲もないひとつの光景、いち日常になっている、だからほっておくも何もなく、そもそも人が関心を向けない、ということであれば、それはむしろいいこと、願わしいことなのかもしれない。

 

 

そんなふうに、人、という面では、私はだんだんとひとりになってきた気がする。

 

 

ツイッターで公園オカリナ・カリンバのことを書くとき、他の「人」のことを書くことがそんなこんなでめっきり減った。そのかわり、近くの草や木や、虫や鳥やどんぐりや石や、聞いてくれているかどうか確とはわからないけれども近くに居てくれる(しかたなく居るのかもしれず)、そうしたさまざまなものもの、いや、こう呼ばせてもらってよければ、さまざまな「ひと」のことを書いている。

やっぱり、まるきりひとりではないのだと思う。聞いてもらっているか、聞いてもらえているか、そうでないかはともかく、音を鳴らしながら私がそこに居て、しずかにだったりめいめい鳴いたりだったりしているさまざまな「ひと」が、近くに居る。同じ場に隣り合って居る。そのことがこのごろ、とてもありがたく感じる。

 

このさきしばらくこういう状態が続くのか、これからずっとこうなのかわからないけれど、どうあれそんなふうに、さまざまな「ひと」たちと隣り合って、たとえ通り行く人には届いていかなくても、届いて振り払われているのであっても、自分の音楽をそこの場で少しずつやっていけたらと思う。少しずつ。