或る草の音

そこにある音楽 ここに置く音楽

「表現」ばかりではなかろうけれど

 

しばらく前からツイッターのほうで、「表現のインフラストラクチャー」という話をときどき書いている(その言葉で書いていないときもある)。その話をきちんと書かないとと思っていて、ここのブログにいつか投稿できるよう手元で書き進めている。

 

…のだけれど、「表現」ということにどうもずっと引っ掛かる。表現、expressionとは「内にあるものを外に出す」の意味だと言うけれど(私も、字義はそういうふうに理解している)、しかしたとえば音楽は「内にあるものを外に出す」ばかりではないと思うのだ。音楽にかぎらず、しばしば「表現」と呼ばれるさまざまなことが、実際のところそうなのではなかろうか。

 

誰かが音楽を演奏していたり自身が作った音楽を開陳していたりすると、それはその人の「表現」だと他の人からはみえるかもしれない。しかし当人は自身の「内にあるものを外に出した」つもりではなく、たとえばすでにある音楽作品をその「ある」ように演奏したり、自身の内にあるのではない何かの原理や理念、「真理」に従って作品を作ったり、などなど、そういうふうなことをしているということもけっこうあるのではなかろうか。

それが他の人からみたときに、その人の「内」にあったものが「外」に出てきた、外在化・可視化された、と、出所を推測されて、その人の「表現」だと言われる、ということがまま起きているのでは。

 

そして、その人のそうした「表現」に対して受け手が、自身の感じたことを、とりわけそこにあると思った問題性を、その「表現」した人の「内」に帰属する、ということも、たびたびなされているように思う。

 

 

そうしたことをいろいろ考えると、「表現」という言葉よりも適当な言葉がないかと探したくなる。

しかし「芸術」ではぎょうぎょうしいし、「創作」だとはかぎらない。言葉はしばらく探したいと思うが、とうめん「表現」という言葉に頼るほかないかもしれないとも思う。

 

 

「表現のインフラストラクチャー」の話は、たとえば図書館や公民館が人々の「学習のインフラストラクチャー(社会基盤)」であるように、表現ということにも何かそうしたインフラストラクチャーが考えられるのでは、そしてある意味この社会において「必要」なのでは、という考え、発想から、あれこれ考え進めているもの。

この考えは私自身は半々くらいで思っていて、そういう基盤みたいなものがなくても人は表現するときにはなんとか表現する、表現しようや、と思っている面もかなりある。しかし、そういうものがあっておかしくない、いやこの社会に当然あってしかるべきだったのでは、という気持ちもある。そうしたことも含めて、いつかここに載せられたらと思っている。

 

そのときに、「内にあるものを外に出す」ということにかぎらない、もっと適切な言葉、いい概念にたどりついていたらいいなと自分で思う。