或る草の音

そこにある音楽 ここに置く音楽

のびのび駅ピアノ 〜 「居合わせる」音楽について少し

 

母はNHKのBSでよく放送されている「駅ピアノ」(空港ピアノ・街角ピアノ)の番組のファンである。私もその番組を好んで見るのだが、母は私よりも番組をまめに見ている。

先日私が駅のピアノを弾いた話を母にしたところ、弾くとどんな気持ち?と尋ねられた。けっこう気を遣うと話した。駅は見送りの人も多く、いろんな気持ちの人が通るから、と言うと、テレビで見る駅ピアノの人たちはみんなのびのび弾いているのに…と意外そうだった。

 

駅に置かれたピアノを弾く人それぞれに、のびのび弾いていたり、かちかちになって弾いていたりするだろうけれど(自分はそれでも弾いているあいだは相当のびのび弾いているほうだと思う)、いろいろ考えるうち、自分の場合は少なくとも場の「主役」にはならないなと思った。ピアノそのものも場の主役ではない。駅ピアノのようにピアノが置かれて自由に弾ける場で、ピアノやピアノを弾く人が主役になる場なれる場、音楽が主役になる場なれる場も、どこか別にあるだろうけれど、駅は違う。

 

駅でピアノを弾く私は「そこのピアノを弾いている人」というだけだと思う。そこのスマホを見ている人、そこで誰かの帰りを待っている人、別れの時間を過ごす人たち、道を急ぐ人たち、日常の暮らしのなかでその暮らしのままに駅を通って行く人たち、そのなかにいるひとり。

私も音楽もそのなかの「ひとり」以上のものではなく、「ひとり」以上なものにならないほうがいいという気もする。

 

そのような「そのなかにいるひとり」であるようにそこに「音楽」がある、ということが、音楽が場をしあわせにするとか場を変えるとか場を支配するみたいなことよりも、よほどだいじだという気がする。なにより、そこにある、あるんだ、ということが。

 

音楽が場の「主役」に躍り出て場をどうこうするのでなく、しかし場と「調和する」ということでもなく、ただその場にある、「居る」ということ。「居合わせている」と言ってもいいだろう。

駅は、さまざまな人が行き交い、ひととき居合わせている場だと思う。だから音楽も同じようにそこに居られるし、居るのだと。さまざまな人たちと「居合わせる」ものだと。

 

 

そこまで考えて、のびのびと居たらいいんだと思った。ひとりぶん、のびのびしていよう。私も音楽も。