或る草の音

そこにある音楽 ここに置く音楽

公園の荒城の月

 

10数年か20年くらい前だと思うけれど、竹田市の岡城の上の、ひと気のない場所で、自分で作ったオカリナで「荒城の月」を吹いたことがある。吹いたのは吹いたものの、それまでことさら「荒城の月」の練習をしていたわけではなく、オカリナもたしか出かけるときに思い立って持って行ったもので、ぜんぜん曲にならなかった。出直してきます、と頭を下げて、その場から立ち去ったのを覚えている。

 

オカリナを再開してそろそろ7年になる。再開してほどなく、公園でオカリナを吹き始めた。いまもときどき公園や緑地などに出かけたり立ち寄ったりしてオカリナを吹いている(このごろはカリンバも持ち歩いて出先で鳴らすようになった。カリンバのことはまた後日あらためて書きたい)。

瀧廉太郎さんの誕生日ということで、昨日(まだ日付が変わったばかり)、公園で「荒城の月」を吹いた。その前に、いままさに季節だと思って、「納涼」(有名な「花」が収載されている、組歌『四季』の第2曲)を楽譜を見ながら吹いたのだが、一度も吹いたことがなく楽譜の調のままでは吹けない曲をその場で吹くのは私では無理だった。吹いていてだんだん自信がなくなり、音に張りがなくなった。岡城で「荒城の月」を吹いたときのことが胸の中をさっとよぎった。

それで、次に「荒城の月」を吹いた。「荒城の月」もたびたびは吹いていない。曲になりそうにないのはよくわかったので、ゆっくり、しっかりと息を継ぎながら、朗唱するように、むしろ朗誦するようにだったかもしれないけれど、吹いた。

オカリナを吹いたのは、浅い木立の中の遊歩道沿いのベンチで。人はあまり通っていなかったけれど、「荒城の月」を吹き始めるとき、少し離れたところのベンチにお散歩のお二方が座ろうとしていたのが見えた。私がオカリナを吹いているのはわかってお座りになっているのだろうと思って、気兼ねをすることなく音に集中して吹いた。吹き終えたときにはいらっしゃらなかった。

つくつくぼうしの声があたりに響き渡っていた。春でも秋でもない、城跡でもない、まだ真夏と言うほかない公園だった。

 

公園からの帰り、西空に月が出ていた。旧暦七夕を控えて少し満ちてきた、それでもまだ細い月だった。

 

 

瀧さんに関連してひとつ書かないとと思っている件があるけれど、まだ書くことも気持ちもまとめかねている。

このブログはいまは、作曲家誰々さんの音楽、演奏家誰々さんの演奏、ということをテーマにするよりも、音楽ということ、音楽をどう聴きどう作りどう演奏していくということを、考えながら書いていきたい。いやそれよりも、自分が自分の思う「音楽」やそのまわりのことごととどう関わっているかを書き綴ることで、音楽について考えるときの糸口にでもなりそうなものをここに書いて置きたい。そういう気持ちがある。そちらの気持ちにのっとって、いましばらくはこのブログをぽつぽつと書いていきたい。

瀧さん関連のことはそのうちに。今夜は、「荒城の月」を吹いたそのことを書き綴って、瀧さんの誕生日を送り越そうと思う。

 

 

※ この記事を当日いちど公開してから、思うところあって非公開にしましたが、 少しだけ書きあらためて再度公開しました。