或る草の音

そこにある音楽 ここに置く音楽

音楽が要らない人のとなりで

 

いまたまたまそういう「時代」になっているからわかりやすいけれど、音楽というのは要らない人は要らないし、不要不急なものだと見られがち。音楽を擁護する人、なんとか「音楽の火」を守ろうとしている人もたくさんいるけれど、その人たちが守りたい音楽は音楽なにもかもではなかったりする。

 

そういうなかで自分の音楽を、ある程度人目に触れる場で、人の耳につく場で、やっていく、続けていくには、処世術的なことも要るかもしれない。いま音楽が要らない人にも音楽はだいじだ、社会の誰かにとってこの音楽は必要なのだと訴えること、あるいは誰かが必要とするような音楽を実際にやっていくこと、のような。

 

ただ、音楽の出所はかならずしも、そうしたどこかの誰かに応えるためというところにはかぎらないだろう。いや、自分が音楽をしたいという、自分の心が、やっぱりいちばんの出所、音楽の生まれ故郷なのではあるまいか。

 

音楽の出所がそういう、音楽をしようとするそれぞれの人のうちにある、ということを、処世術を行使するいっぽうで、信念として持っておくこと、理念として抱いていることが、だいじかもしれない、だいじになってくるかもしれない、という気がする。

その信念、理念で、自分の音楽も保ち、ほかの人たちの音楽も、たとえ自分には受け容れられないとしても、その人たちの音楽であることを保つ。そうすることで、誰もの音楽が、音楽でいられる、そういう世の中を保っていけるのではないかと思う。それはとてもとても細い道かもしれない。それでも道であるだろう。

 

音楽は要らない、と言う人のとなりで、音楽として存在し続けること。たとえ多少の処世をはかるとしても、あるいははからないことにするのであっても。

理解してもらえるかどうかの前に、音楽はひとりひとりの人とともにそうして存在してきたのだし、これからもそう存在する、そう生まれ出てくる。

まずはそのことを「信じる」ほうにかける。そのあとのことはそのあとのことだと。

 

音楽は生まれ来る。自分にとっても、誰にとっても。