或る草の音

そこにある音楽 ここに置く音楽

晩春

 

もうだいぶむかし、グリーグの「春(過ぎた春)」が「晩春」と訳されて放送されていたことがある。訳としては正しくないのだが、その「晩春」という言葉のひびきが心に残っていて、この曲を聴くときにそのイメージが心をよぎることがある。そのイメージが、それはそれで正しくも思える。

 

 

めじろは早くに去ったが、うぐいすが去り、そしてしろはらの声もしなくなり姿も見なくなって、庭がしずかになった。冬のあいだはあんなににぎやかだったのに、春という季節はいかにも楽しげなのに、このしずかさはしんしんとさびしい。

 

冬の一時期、2月の終わりごろに、気候がずいぶんとやわらいで過ごしやすくなる時期がある。その時期に以前、春はこんなにしずかに訪れるものなのかと思ったりしていた。

その時期には冬の鳥たちがいる。しかし、いまはもういない。

 

梅が咲くときや桜が散るときではなく、しろはらが北へ帰るときがここの冬が終わるときだ、と思ってきた。そうしてほんとうに春が来る。

今年は、しろはらが帰って、春が終わったような気がする。終わったのでなければ、いまこのときは、晩春、なのだろう。

 

 

春の終わりが続いていく。風が木々の古い葉を落とす音だけがしている。